2015年3月19日木曜日

没後50年ーー小杉放菴ー〈東洋〉への愛ー展@出光美術館 放菴はおおらかで巧いなー


i会期も中盤に入ってきたので、慌てていってきましたー。美術館のHPの解説(斜め灰色文字)を参照しながら、感想文をば・・・
 
放菴作品の展示は、当館では2009年2月に開催した「放菴と大観-響きあう技とこころ-」展以降、6年ぶりの公開となります。とくに今回は、東京国立近代美術館、小杉放菴記念日光美術館、栃木県立美術館、泉屋博古館分館ほかのご協力によって、放菴作品の代表作が集います。約90件の作品で放菴の魅力に迫る展覧会。この機会をどうぞお見逃しなく。
展覧会の構成
  1. 第1章
  2. 第2章
  3. 第3章
  4. 第4章
  5. 第5章
  6. 第6章
  7. 第7章
  8. 第8章
  9. 第9章
各章の解説
第1章
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放庵画冊より 明治時代 小杉放菴 出光美術館蔵
小杉放菴(こすぎほうあん 1881~1964)は、明治14年(1881)に日光二荒山(ふたらさん)神社の神官・富三郎(蘇翁)の末息子として生まれます。国学者で文化人であった父に従って、15歳で日光在住の洋画家・五百城文哉(いおきぶんさい)の内弟子となります。高橋由一(たかはしゆいち)の門人で実力者だった文哉に可愛がられてデッサンを学びますが、青雲の志を抑えきれなくなり、18歳で上京、小山正太郎の画塾・不同舎に入ります。勇壮な外貌と、〈未醒(みせい)〉と号するほどの酒好きで元気者の放菴。小山に見込まれて、日露戦争では国木田独歩(くにきだどっぽ)の『戦事画報』(旧『近事画報』)の従軍記者として戦地へ赴き、挿絵で悲惨さを訴えました。洋画家の美術団体である太平洋画会に出品する傍ら、田端の自宅近くに倶楽部を創り、画家仲間とテニスを楽しむうちに、その仲間たちとの間で美術同人誌も生まれました。同人誌に寄せた漫画には、現実社会を直視する繊細な優しさが溢れています。田端に住んだ芥川龍之介も、外貌と内面の差が激しい放菴を、愛おしそうに“未醒蛮民(ばんみん)”と呼びました。
先ず入って最初の章のタイトルに「蛮民」とあるので、野蛮な民って言われいてたの?と一瞬戸惑い、更に、宮司の子供であるからには野蛮からは程遠いだろうーと読み進んでみたら、なるほど愛おしさによる命名だったのですねー、しかも芥川龍之介による命名かぁー。。
それはともかく・・・
敬愛していたという高橋由一を師にもつ五百城文哉と放菴の《日光東照宮》の絵が並ぶ最初のケース。
放菴のそれには、師である文哉の画風をひたすら模倣しているといいつつも、師よりコントラストが強調され白馬会系の影響がある早熟な手の跡・・というような解説がついています。確かにフォンタネージの影響を受けたという大きくて堂々とした師の絵に比べると号数の小さい絵ながら、遠景の木々を薄紫にして朝もやに煙るような森閑とした空気を出している放菴の方が迫力がありますねぇ。また、確かに黒田清輝に代表される白馬会の画風を取り込んでいるといわれればそうなんですけど、私はむしろ、後に影響を受けるというシャバンヌと似た空気を感じましたねぇ・。。
自画像に続いて次のケースに飾られている《婦人立像》、全体的なイメージはちょっとナビ派のような印象。


第2章
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水郷 小杉放菴 明治44年(1911) 東京国立近代美術館蔵
明治40年(1907)から文部省主催の美術展覧会・文展が開催されるようになると、放菴は徐々に頭角を表し、30歳頃には「水郷」と「豆の秋」と二年連続で最高賞の二等賞を受賞します。洋画界の将来を嘱望された放菴は、翌年の大正2年(1913)には銀行家・渡辺六郎の後援を得て渡欧し、当時世界的に流行したフランスの壁画家ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(1828~98)に憧れて、パリを拠点に半年間、ヨーロッパ各地の壁画や美術館を見てまわります。しかし、ヨーロッパの伝統の重みに圧しつぶされそうになり、パリで江戸時代の文人画家・池大雅(いけのたいが 1723~76)の画帖「十便帖」の複製に“帰り行くべき道”を示されて、帰国後は日本画に傾倒してゆくことになります。ここでは、文展入賞、留学中、帰国後の油彩画に、隈取や筆触といった日本画特有の味わいが表れてくる過程を追います。
《水郷》は二等賞という事ですが、旨いけど、題材のせいか楽しくないかも。でも洋行中の《スペイングラナダ娘》は、マティスの影響受けてるなー、と思ったりできるのが楽しい絵です。構図はシャヴァンヌだというのだけど。。そうなのかー。。
この留学中と帰国後の大正時代は色々な事に挑戦している感じ。《初夏山雨》なぞ、なんかエッチングでみられるような細かい点と奥行のあるふしーぎな画面で目を引き付けられます。解説によれば東洋画で常套的に使われる済による黒い点で苔を表すだけではなく、白い点を加えることで雨に濡れた輝く山を表現できているとの事だけど、何しろえぐるような線なぞは当時にしてはアヴァンギャルドだったのではないかと思うのです。


第3章
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湧水(いずみ) 小杉放菴 大正14年(1925) 出光美術館蔵
東洋色が濃くなって帰国した放菴を支えたのは横山大観(よこやまたいかん)でした。大観は大正2年(1913)、岡倉天心(おかくらてんしん)亡き後の日本美術院に、放菴を洋画部門のリーダーとして迎えて再興し、二人は意気投合して国際社会に恥じない新しい絵画を創り出そうと情熱を傾けます。大正9年(1920)に、院から洋画同人たちと共に脱退すると、洋画家たちと創設した春陽会に加わり、水墨の素描や東洋趣味の洋画を出品して注目を浴びました。そして、大正末期には壁画の依頼にも意欲的に応え、洋画家としての地位が不動のものになりました。東京大学大講堂(通称安田講堂)の舞台を飾る壁画では、ソルボンヌ大学大講堂のシャヴァンヌの壁画を念頭におきながら、裸体のミューズたちを天平風俗の乙女に変え、東洋的な情緒を湛えた作風へと昇華させています。日本画を思わせる色彩や筆触が、油彩画に淡白な柔らかさを与え、東西や時代を超えた神話世界へと誘います。
実際の安田講堂の壁画は持ってくることができないので、下絵が展示されているわけですが、シャヴァンヌを意識した人の動きとか構図なんだそうです。でも日本的というのかふくよかな東洋的な人たちが並んでいる壁画写真や《湧水(いずみ)》を見ると、よく咀嚼しているという印象を受けます。つまり自分の画風としているような感じ。
第4章
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瀟湘夜雨 小杉放菴 昭和時代 出光美術館蔵
池大雅の「十便帖」の複製に、放菴は思いがけず墨線の力を見出します。放菴の留学した1913年の西欧においては、ピカソやマティス、カンディンスキーなどが絵画のリアリズムを否定し、新たな空間原理を創り出そうとしていました。しかし、画面上に空間を自由自在に作り出す大雅の線は、こうした西洋の動向に先駆けた新しい線と感じられたのです。

「大雅堂の絵は、さながらの音楽、最も自然を得て、最も装飾的、暖かく賑やかに、しかしながら静かなる世界、其の基調は一に彼の太く緩く引かれたる線條に在る。」〔小杉放菴「線」、大正14年(1925)〕

帰国後の十年間、大雅研究に熱をあげる一方、中国旅行をし、宋元画など中国の古画学習にも没頭してゆきました。ここでは、江戸時代の文人画と放菴の南画の競演により、放菴が憧れた文人世界を検証します。
この章に入ると、池大雅と放菴の同じ画題《洞庭湖秋月》とか《瀟湘夜雨》を隣り合わせて展示。浦上玉堂と同じ画題もあり。そうやってみると、先人にかなり軍配があがってしまうと見えるのは私の偏見かなぁ。。放菴の《瀟湘夜雨》は、大雅にひけをとらないし、比較画題のなかった《渓雲》は良いと思ったわけですが。
《大雅堂瀟湘八景扇面小皿》は元絵が池大雅、染付が放菴、窯は板谷波山というゴージャスな組み合わせ、光悦・宗達や尾形兄弟のコラボを想起させる組み合わせですね。
第5章
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帰院 小杉放菴 大正15年(1926) 出光美術館蔵
大正期には、大観らの影響もあり、日本画の画材に関心が高まります。洋画の主題を屏風、金箔地、絵巻に、南画の主題を油彩画へと、様々な媒体に試して好評を得ました。さらに大正末期に、福井の紙漉き職人・岩野平三郎が、平安時代に姿を消した麻紙(まし)の復元に成功すると、放菴は一種変わった墨の風合いをみせる麻紙の虜になりました。そして昭和4年(1929)の中国旅行の時、その餞別として洋画家の倉田白羊(放居士 ほうこじ)から画号の一字を奪い取って、〈放菴〉と改号します。

「人或いはこれを転向という。自分はずっと続いた一本道だと思う」〔小杉放菴 「半世紀以上」、昭和35年(1960)〕

世間から“転向”、あるいは“東洋回帰”と見られ、放菴の描く南画は、構図が勝ちすぎていて、文人の精神性がないという批判もありました。しかし、放菴は、自らの漢学の教養をおしつける南画ではなく、文人の楽しみを鑑賞者と共有することを第一とし、筆の修練を重ねて、洋画と日本画に新しい風を送り続けようとしたのです。
麻紙に拘る放菴という説明を見て、そういえば、竹内栖鳳も同じ岩野平三郎さんのところで「栖鳳紙」と言われる紙を作らせてたんじゃなかったっけ?と思い至り。。。確か横山大観も同じ紙職人さんを使っていた。。
放菴が出来上がってくる麻紙を使う度に色々コメントして100通程手紙を送り、それに応えたとの解説を読んで、いやいや、放菴ばかりではなく、後世に名前を残す大画家たちの細かいリクエストに応えていた岩野平三郎さん、凄い!っと、そっちに頭がいってしまいましたよ。ほんと。
この章の最初の絵は《ブルターニュ風景》等のシャヴァンヌの影響大と一見してわかるような絵が並んでますが、その中でも《黄初平》という絵が気に入っちゃいました。背景に金箔を使い、道化のように踊るような人物のイメージは西洋風でもあり、画題でもある黄初平の逸話(失踪していた羊飼いが仙人になり石を鞭打つと羊に変身する・・・ってなかなかの話ですが。)は中国のもの、と西洋、東洋入り乱れているものの、そこでうまーくバランスのとれた不思議な絵の魅力。
《帰院》《釣秋》といった絵も構図や金泥使いが素晴らしくて良いなー。
《新緑写意》の解説ではマティスのフォーブ時代の絵に似ているとか書いてあったけど、それには疑問符ありですが。。笑
第6章
http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/exhibition/present/images/highligh_ph006.jpg
春風有詩 昭和3年(1928) 小杉放菴記念日光美術館蔵
昭和に入って放菴の主要なテーマとなったのが、東洋の神話や古典の世界です。幼少の頃から父・蘇翁や師・文哉に従って漢詩の素読を習ったことの上に、漢学の碩学・公田連太郎(きみだれんたろう)との出会いが、放菴の思想をますます東洋に傾かせることになりました。放菴は、昭和2年(1927)から田端の自宅で友人を集めて、毎週、公田から漢学の講義を聴く「老荘会」を主催します。中国古典の思想は放菴の生き方にも多大な影響を与え、昭和9年(1934)から信州・妙高高原の別荘で、自然の風物に囲まれながら作画する生活を楽しむようになりました。放菴の描く荘子や李白は、別荘前に据えられた“高石”の上で妙高山を眺めて暮らす放菴の分身であり、明るく大地を踏みならす神々は放菴が遊んだ日光の大自然の象徴なのです。現実と離れて遊んでいたいと願った放菴の心が伝わってきます。
確か以前も見たような気がする《酔李白》とか《荘子》も衣の白とそれ以外の抑えた色との対比も含めて、なんというのか、泰然自若の高士の姿を良く表していていいなーとおもいましたよ。解説では放菴自身だというのだけど。
更には《さんたくろうす》、西洋の屋根と松林の中にいるサンタがミスマッチ感なく同居する姿は彼の絵の特徴かもしれませんね。
このコーナーの最後には前回は第一室の一段下がったところに掛かっていた(と記憶)笠木シヅ子がモデルという《天のうづめの命》もかかっています。この絵はポスターやチケットの絵柄にもなっていますよね。
前回の展覧会の時には目に留まっても気にならなかった解説はこの絵が日章丸二世の為に描かれ、船長室に掛かっていたと言う事。出光佐三を描いた『海賊と呼ばれた男』の影響で今回はすっかりあまたに入りました。
《洞裡長春》に出てくる梅の香にうっとりする唐子といいふくよかで、優しさを感じる人物の描き方は抜群ですねぇ。。
第7章
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金太郎遊行 小杉放菴 昭和17年(1942) 泉屋博古館分館蔵
放菴の長い画業人生の中で、人と寄り添う牛はとりわけ好んで描かれたモチーフです。放菴が初めて描いた南画の画帖「南嶋帖(なんとうじょう)」にも、沖縄で牛の手綱を曳く牧童が繰り返し登場しますが、その構図は後年、禅の悟りの段階を説いた中国の伝統的な画題「十牛図(じゅうぎゅうず)」を思わせる画へと展開してゆきます。放菴の眼には、素朴な牛と牧童の日常風景が、「十牛図」や「出関老子(しゅっかんろうし)」といった中国古典文学のテーマと重なって映っていたようです。放菴が孫をモデルに描いた、悠々と熊に跨った金太郎の勇姿も、超然と牛の背に載った老子の分身といえましょう。ここでは、「十牛図」をテーマに、融通無碍に姿を変える物語世界をご紹介いたします。
放菴は金時を随分描いているけれど、本来雷神の子という位置づけで赤い身体を描くのが習わしだったところ、肌色に書いているのはお孫さんを模して書いているからと。放菴という人の人柄も伝わってくるようで、微笑ましい。


第8章
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山水八種 小杉放菴 昭和8年(1933) 出光美術館蔵 〈場面替あり〉
放菴と出光美術館初代館長・出光佐三との出会いは、『景勝の九州』(昭和5年(1927)刊)という一冊の本がきっかけでした。『景勝の九州』は、放菴が九州電力の招待で九州をまわったときのスケッチ画冊「鎮西画冊(ちんぜいがさつ)」をまとめた旅行記ですが、佐三はその挿絵を見ているうちに、自分が惚れ込んだ博多の禅僧・仙厓(せんがい)と相通じるものがあると直感したのです。二人は画家の岸浪百草居(きしなみひゃくそうきょ)の紹介で会った途端に共鳴しました。この頃の放菴は、中国明末の文人・石濤(せきとう)の画冊「黄山八勝画冊」の色彩の美しさに感銘を受け、画冊の制作に精力を注いでいました。青年洋画家たちの間で、写実を突きつめて絵の具を塗り重ねた風景画が流行することを憂慮し、明るく美しい日本の風土を描きたいと願ったからでした。放菴の日本の風土を愛する純粋な心が、佐三には仙厓の無垢な境地に重なって見えたのかもしれません。
もっとみどころ
わかりやすく実感、放菴の画業
近年、日本近代画壇の中で重要な人物として、密かに脚光を浴びている小杉放菴。しかし放菴の名は、いまだ一般の美術ファンにまでは浸透していません。実は、当館の初代館長・出光佐三は、彼の有力な庇護者でした。プライベートな交流からはじまった放菴作品の収集は、約300件に及び、出光コレクションの一つの柱となりました。出光美術館だからこそできる、本格的な展示。この会場を一望すれば、放菴の画業が、さらりと実感できます。
http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/exhibition/present/images/highligh_ph009.jpg金時遊行 小杉放菴 昭和時代 出光美術館蔵
第9章
妙高高原に別荘・安明荘(あんめいそう)を建てると、放菴は花鳥画に興味を持ち出します。鳥屋から鳥を買ったり、白かん鳥(はっかんちょう)を飼うための小屋を造ったり、川治温泉の鳥屋に一週間ほど籠もってスケッチをするなど、昭和10年(1935)頃から花鳥の写生の手控えが見られるようになります。戦争で田端の画室が焼かれて東京を離れると、安明荘で花と鳥に囲まれた世界に没入します。

「春光秋色自然の風物は人を慰める、又自然の風物を調理した芸術は人を慰める、この慰安芸術は、事実から遊離した境地のものでありたい、」 〔小杉放菴「兼山の縄」、昭和22年(1947)〕

愛国心の強かった放菴は、戦後の荒廃の中に於いて、絵の効用の一つは人々の心の休息や安らぎにあると考えていました。麻紙の繊維が醸し出す墨のぬくもりと絢爛な色彩のハーモニー。時間を忘れてたたずんでしまうような浄土世界は、放菴芸術の極みといえましょう。
http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/exhibition/present/images/highligh_ph010.jpg梅花小禽 小杉放菴 昭和時代 出光美術館蔵 〈2月21日~3月15日展示〉
サイトにあった写真は前期のもので、これも素晴らしい構図だけど、後期の同じ《梅花小禽》とのタイトルのあった二曲一隻の屏風もこれまた素晴らしい構図、大胆な構図は天性の巧さをつくづく感じさせられます。
いやー、楽しかった。
 

小杉放菴
没後50年ー〈東洋〉への愛
2015年2月21日~3月29日
出光美術館

2015年3月7日土曜日

魅惑のデミタスの宇宙............. 日本のハーブアンドドロシーのコレクション@三井記念美術館

昔むかしのことですが、英国の陶器 ウエッジウッド、ロイヤルクラウンダービー、ロイヤルウースター、ミントン等の並行輸入をしようとしていた時期がありまして、ま、実際にはそのプロジェクトは立ち消えにしてしまったので、手元にもサンプルもないんだけど、そんな夢見る乙女な時期があったわけですね。

・・・なもんだから、昨年の夏頃京都にいく予定があった時、「デミタス・コスモス」なる展覧会があるんで、寄って鑑賞したいなろうと思っていたのだけど、時間が作れず断念。ま、デミタスカッブだから、ま、いいか、と思ったのも事実。
その後、ある場所で知り合った三井の学芸員の方がこの巡回企画のご担当だと知り、あれ?それって?確か細見でみられなかったおんなじ企画?
しかも、記念のチロルチョコも販売するとの情報迄。

いやー、それなら行かねばならぬ。だって、「雪と月と花」に行った時は売り切れてたし。(え?そこ?言う?苦笑)
冗談はさておき(ゲットしましたけどね)、いやー、思っていた以上に楽しかった!

デミタスだけに絞ったコレクション・・・なんて、当時の夢見る乙女には思いもよらなかったけど、それを御夫婦の共通の趣味として、御主人のお身体のせいで浮いたお酒代でコツコツ集めたなんて、しかもお嬢様の結婚準備のお金が必要な時はお休みするなんて身の丈で集められたなんて素晴らしい。日本のハーブ&ドロシー?ま、H&Dよりは少しお金持ちなのでしょうけど。

と、いうより、素直に素敵なコレクションだわ!
まず、最初のケースに入った趣の違う三客のカップたち。
解説にも目もくれない段階で、すぐに一番左下のカップに目を惹かれー。
その《上絵金彩ジュール花文カップandソーサー》 KPMベルリン(1901-1920)と説明書きのあった赤い花などのゴージャスな柄の小さなカップはガラスケースの照明の反射を受けてきらめいて私に訴えかけてくるような美しさ。
それが御主人康裕氏の一番のお気に入りと左の解説にありましたね。
奥様の方は金彩の中に菫が描かれている1800ー10年頃のウィーンのもの。これも素敵。
お二人の共通の御趣味とはいっても、それぞれの好みもあって、二人でどんなのにしましょう?と仲良く選ばれていたのかな?なーんていう想像も広がり、優しい気持ちになれるのもこのコレクションの良さかも。
ちら読みさせていただいた図録には最初は色をテーマに収集、のちに絵柄、窯というようになっていったと書いてあったけど、その中でも、奥様の一番お好きなカップの絵柄にもなっていた菫のモチーフのものも、きっと集められていたんでしょうねー、中でも菫の花がカップの持ち手についていた《上絵菫図カップandソーサー》ニュンフェンブルグ1895ー1910年は、私の心をとらえてくれました。
持ち手といえば、ハイハンドルと呼ばれる持ち手のものにユニークな形のものが多かったなー。うずまきみたいなのとか、鶴・・・じゃなかった白鳥の首が取っ手になってて、くちばしでカップの淵を加えていたり、蝶々の形のものは、ウチにもあるから珍しくはないのかもしれないけど、友達は見たことなかったって言ってたし。四角い取っ手やいろんな形があって楽しかった
(残念ながら図録買わなかったので、ちらしの写真には、
このロイヤルコペンの蝶々の取っ手の以外、それらのユニークな形のものがなくって写真でお見せできず、ちょっと寂しいですが。。)

そして形の中でも秀逸なのはやはり、いつも国宝なんかが一点だけ展示されるところにあったロイヤルウースターの《上絵金彩ジュール透彫カップandソーサー》
1880年代のジョージ・オーエンという陶工の手になるもの、素地を完全に乾燥しない状態に保ちながら、様々な道具を使い小さな穴をくるぬくその技術を誰にも明かさなかったので、同じような作品を作ることができなかった、との解説。このカップandソーサーの脇には同じ技法の対になったポットが展示されていて、透かしだけではなく取っ手のあたりの七宝とかに目を奪われますが、もうひとつ見どころがありました。実は一回目の時には気づかなかったし、皆に聞いても見落としてる人が多いけど、注ぎ口の胴に近い部分に、このエメラルド色のポットの絵が描いてあるんですよ。これが、ちょっとかわいい。技法は誰にも明かさなかったオーエン氏の遊び心が垣間見られて、ヘンクツなだけではなかったと、ほっとしたりして。。

このカップandソーサーは二重構造にはなってないように見えましたが、セーブルあたりはちゃんとダブルフェイスといって実用的に内側には透かしではないカップ、それを取り巻く透かしという技法で魅せてくれてます。もともとは透かしの技術は中国からきているということなので、日本にも伝わってそうなところ、明治維新後のウィーン万博で見て技術をボヘミアまで行って学んできた納富介次郎という人が日本の製陶技術を上げたというからに不思議な気持ちになりますよね。だって、ロイヤルクラウンダービーとかはその絵柄を伊万里に学んだりしているわけだし、






2015年2月24日火曜日

私の!・・・っていってみたいものだわ。。青い日記帳 X ワシントン★ナショナル★ギャラリー展 ブロガー・特別内覧会 @ 三菱一号館美術館

一回入口にも大きな《猫を抱く女性》のポスターが
宣伝コピーに「私の印象派」ってあってね、ポスターやちらしにはまるで、その私の印象派をいとおしむように、ルノワールの《猫を抱く女性》が使われていてアイキャッチーなこの展覧会のお知らせを最初に聞いたのは前回こちらでのブロガー内覧会に伺った時でしたね。(ミレー・・・感想文書きかけのまま・・・滝汗)

その時も高橋館長が、三菱一号館にふさわしい小さな絵が多いんです、とのお話をされていたっけ。

今回も、館長から実は易きに流れやすい「○○美術館展」的な企画は好きでない中、なぜ今回ワシントンナショナルギャラリーを取り上げることになったかといえば、今回の作品のコレクターであり、ナショナルギャラリーの最大のパトロンメロン家の長女エイルサ・メロン(Ailsa Mellon Bruce)が沢山の名品を同美術館に寄贈した中でも、もともと手元に残し、鑑賞したであろう、スケールの小さい、intimateな親しみやすい作品を集めたもので、且つ三菱一号館の持つ雰囲気にぴったりな作品群であったため、との説明から始まりました。
実は、今回はワシントンナショナルギャラリーの改装にあたり、開催される国際巡回展なんだそうで、ローマ→テキサス→東京→シアトルと回って、戻る頃には改装終了ということらしい。(ってことは、三菱一号館が作品を選んだわけではなく、企画された内容が一号館に合う作品が多かったと言いたいのでしょうね。)

それはともかく、ワシントンナショナルギャラリーも広大で、普通はこういう印象派の小品ばかりを見ることもできないだけに、良い企画といえるでしょうね。

特にエイルサのコレクション(と弟のポール夫妻のコレクションが太宗を占めています。残念ながらポスターとなった猫を抱える女性の絵は他の人のコレクションだけど)は優しい色の印象派、新印象派やナビ派の作品でまとまっているということもあり、ワシントンでも人気だし。・・と書いていて気づきましたよ。モネが一枚しかないね。その代わり、ブーダンやヴュイヤールがボナールとともに何枚もあって、これがコレクションを特徴づけていますね。

館長は約束通り5分程度で挨拶を終えられ、今回も主催してくれた青い日記帳のTakこと中村さんが担当の杉山学芸員に質問を投げかける形で、作品解説(・・といっても、会場を隅々動き回るのではなく、三菱一号館の場合はたいてい三階の一番広い部屋からは出ないので、実際の作品の前で解説を聞けるのは数点となってしまうわけですが・・)。


前回のミレー展の時は担当学芸員の安井さんが館長同様話すと止まらなくなるほどの勢いでしたが、杉山さんは大人の女性らしく落ち着いた感じで淡々と説明されます。まずはマネとドガが描いた競馬を題材にした隣り合った二点のお話から・・
ドガの方はバドックで馬の調子を確かめる騎手や周りの風景を切り取った絵@ノルマンティー地方(モネが沢山描いたことで知られるルーアンの大聖堂が遠くに見える)、対するマネは今も凱旋門賞の開催されるロンシャンの競馬場で、今まさにゴールに向かって追い切っているシーン。
大変小さい作品(図録では拡大しているので、実物よりも大きいと、TAKさんが見せると皆大笑) ながら、馬の疾走している臨場感が、とても迫力がある仕上がりとなっていて、さすがはマネといったところ。

あれ?でもこれはエイルサやポールのコレクションではありませんね。因みにこの完成作品はシカゴにあるそう。


お次はルノワールの《花摘み》。隣り合っている同じルノワールの《ブドウの収穫》


とだいぶタッチが違うのでは?とのTAKさんの問いかけに杉山学芸員「画風は似ています」 一本とられちゃいましたね。(それとも、あえての質問か?)それでも、「肖像画のイメージが強いルノワールですが、風景画も描いています」と。
確か、昨日みた「ルーブル美術館展」の解説では中世ヨーロッパでは歴史画(宗教の寓意があるもの)→肖像画→風景画→静物画→風俗画というランク付けだったと解説してあったけど、ただルノワールもそういったヒエラルキーを内に残していただけなのかもしれない・・・なーんて思ったりもし・・

さらにはゴッホがまだ精神的に追いつめられる前のオランダ時代の空も穏やかな雲に覆われている作品は珍しいことの説明が続き、ルドンやスーラの新印象派の並ぶ壁に移動。

ルドンというと黒いイメージでしょうが、(いやいや、三菱一号館の《グランブーケ》のおかげで、あの怖くもあり、ひょうきんでもあるクモのような白黒版画の事はすぐに思い出せないくらいですわよ。。) 色彩にあふれた絵画も書いているのよ・・・と。

いや、その割には《ブルターニュの海沿いの村》なんて、色抑えめ・・・だけど明るいという作品ですよね・・・ってTAKさんが横から言ってるし・・・(一本取り返しましたかな?)

極め付けは、そこで耐えられなくなったか、高橋館長がいきなり、ルドンのとなりのスーラの二枚について話しはじめ・・・
よくみるとブルーの枠の外側にも更に枠が描かれていますよね

要はスーラは、額を嫌って自分で枠板を(点描とかを展開して)ペイントしていたというのに、当時のアメリカは額が盛り盛りを好んでいたようで。せっかくの手書き枠が生かされきれていない・・・
というところで、杉山さん、「そういう意味で当時のアメリカで印象派が流行っていた時は豪華な額が好まれていたということがわかるのでいいのです。今回も額を見るというのもポイントです。」なるほど。

反対側の壁には冒頭説明した《猫を抱く女性》ほか女性四連作。肌の質感、猫の毛並みに注目して下さいねとのこと。

近づいてみてみるとかなり厚ぼったく塗り重ねているんですね。猫というと薄く岩絵の具で毛並を一本一本描きあげた栖鳳の《斑猫》(本当は漢字が違います)を思い浮かべてしまうのですが、まったく異なって、かなり分厚く絵の具を「盛って」ます。(写真では全くわからないけど・・汗。。。ま、それが展覧会に行く良さでもあるので、是非お運びください)

そのあたりが油絵と日本画の決定的違いなのかもしれないなー。

猫が出てきたついで、様々な場面(たとえば、ブーダンの海岸の絵で犬が登場すること、別の部屋には《日本の犬、タマ》って、猫の名前だし、日本の犬と言ってるけど(中国が原産といわれる)狆じゃないか。。との突っ込みをいれつつ、日本の絵(当時は浮世絵とかでしょうが)のコレクターであったマネの友人が日本から持ち帰った犬なんだそうだ、TAMAは。







紹介されたように、ブーダンの海辺を描いた《ツゥルーヴィルの浜辺》には、御婦人の大きなスカートの裾を噛んで離さない犬が登場します。
ブーダンは本当に巧い画家だと思いますが、この情景も見逃さずイキイキと書いていますね。



もう一枚ルノワールらしく、透き通るような肌の質感を表現した女性の絵《アンリオ夫人》は日本に何度も来日されているらしい。この絵のモデルは女優さんだそうで、クラークコレクションにも同じ人物がモデルの絵があるが、もっと雰囲気が違う少女っぽいそうです。
(あれ?どの作品だったかしらー。。)

個人的にはルノワールらしさとエイルサの優しい目線が合体したコレクションとして《モネ夫人とその息子》という作品を挙げたいと思います。早くに亡くなったモネの最初の夫人のカミーユの美しさとはかなさも描かれているような気がします。
さて、解説はいつもの通り三階の一番大きなスペース(今回は第二章の競馬やルノワールのある部屋)で行われたので、絵を見ながらの解説はここまで。TAMAも次の部屋にいましたが、その先の自画像と静物画については時間の関係もあったのでしょうが、ほぼすっとばし。

最後の章についてのみ語られました。ナビ派の雄ボナールと、日本ではそれほどお馴染みではないヴュイヤールヤールのコレクションです。ヴュイヤールは、静物画で以前こちらで特集したシャルダンの影響を受けたそう。

最後に今回は作品ガイドの紙もちょっと凝って見にくいけどひかひかした
紫色にしたそうですよ。

ここから(この前の30分もそうでしたが)自由な鑑賞時間です。
TAMAの次に出てきた、友人とモデルというタイトルの第二章で、つい先日ルーブル展で見たばかりのコローの《芸術家のアトリエ》という絵はつい、先日「ルーブル美術館展」で同じような構図でも背中の向き少し違う?(と思ったのですが、実際はほぼ同じのようです、私の記憶ったら・・・)と思う絵があっただけに、ちとにやりとしてしまいました。

静物画はなかなか面白かったです。マネの《牡蠣》とか、なんだかシャルダンを思い出させるヴヴォロンの《バターの塊》→とかね。





あ、それと静物画の部屋に入る前には、最後の章にでてくるボナールの《革命記念日のパリ、パルマ街》の右側を切り取った絵が描かれています。最近このスペースはいつも作品の一部が描かれていて見るたびに楽しいですよね。








ボナールとヴュイヤール、確かに小品だけど、いずれも味わい深いとてもいい作品たちです。

エイルサと弟のポールの収集の趣味からいうと、エイルサのほうが好きだな。優しい感じ。特に最後の章にそれが顕著に出ているように思いました。


なお、今回のブロガー内覧会は主催者の許可を得ての写真撮影と掲載です、転載はお断りさせて戴きます。


ワシントン・ナショナル・ギャラリー展
アメリカ合衆国が誇る印象派コレクションから
ーInitimate Impressionism from National Gallery of Art, Washington
三菱一号館美術館
2015年2月7日〈土)~5月24日〈日)




2015年2月22日日曜日

平成の大修理は大胆だけど………。国宝 檜図屏風@東京国立博物館



トーハクの、国宝展示室で、17日から公開されている狩野永徳の《檜図》だけを見に行ってきました。
平成の修復が終わり、初めての公開ということで美術系のメディアにも取り上げられていたので、混まないうちに、またリーフレットがなくならないうちに、と言う隠れたテーマも有りましたからね。

この修復の大きな特徴は、汚れをとるとか、キズを、治すとか、そういうレベルではなく、八曲一隻(八枚のパネル(八扇)をに折りたためる一枚の屏風)に仕立てられていた屏風を四曲一双(パネル(四扇)四枚がつながった屏風が二組)に仕立て直すという大胆なもの。まぁ、言ってみれば、真ん中でぶちっと切って、二枚の(四面に区切られた)大きなパネルにしたような見せ方をしています。リーフレットの説明によればもともとは四面の襖仕立てだった=つまり平面で見る条件になっていた、という事なのです、それを途中で八曲にする事で、襖を縁取る部分なしに繋げてしまったので絵柄にずれが生じていた、という訳ですね。

確かに真ん中部分の大きなずれは、縁取りをする事で、その縁取り分の隙間分ずれがなくすっきり見えます。ただ、四曲の真ん中部分は同じく襖と襖の切れ目の筈で、そこのズレの部分が解消されていないみたいです。だから、遠目にみないと、ずれがなくなったと認識しづらい。それと・・・襖であれば、残ったズレの部分も襖の厚み部分があったりして多少立体的に見えるのでしょうが、ぜーんぶ横に平面的に展示してあるものだから、なんだか、豪胆さが消えてしまっているように思いました。ま、それは展示の仕方や、刷り込まれたイメージの問題ではありますが。
すりこまれたイメージというのは。。。屏風としてたてられていた姿のイメージが強く、何か立体感がなくなってしまった気がする。これは展示の仕方の問題なのかもしれないけど、以前立てられていた時は、大きなヒノキが前にせり出してくるような圧倒感が感じられた気がするのです。。。その意味では少し残念。
それと新たに張り替えられた裏面の新しく摺られた水色の唐紙、見てみたかった。。。という観点でも平面はつまらないのです。(ごめんなさい)
その裏面はわずかに残った雲母摺りの跡から、桐の文様(この屏風が伝えられた八条宮家に縁の深い五七桐文)を探りだしたそうです。八条宮家の別邸でもあった桂離宮の古書院の昭和の大修繕の際に型を起こし襖に唐紙を摺ったそうですが、その版木を使って新しい唐紙を作成したそうです。(詳しくは常設一階で分けてもらえるリーフレットにて。トーハクのサイトにもPDFがリンクされています。)

あ、勿論画面、特に金箔部分の染みが取り除かれて明るくなったりして、修理の効果は至るところにありますよね。
いずれにしても18か月の時間をかけて綺麗になって戻ってきたのだから、有難いとしましょう。そしてその財源をくれたンバンカメ・メリルリンチ文化財保護プロジェクトにも感謝ですね。
You Tubeにもトーハクが上げている修繕の記録映像がありました。

https://www.youtube.com/watch?v=TqaKiclMAlg&feature=youtu.be&list=UUi4kijTbqPOh1LPN2f0eQYg

国宝 《檜図屏風》会期:2015年2月17日(火) ~ 2015年3月15日(日)会場:東京国立博物館 本館2室 国宝室