2013年10月17日木曜日

なんでもとっておいてくれてありがとう♪ 「明治のこころーモースが見た庶民のくらし」 江戸東京博物館 

いやー、ちょっと、なんちゃって外交で忙しかったので、書く気力も失っていたのを超久しぶりに感想文書くに至らせることになったのは、一通のメールのおかげです。
そう、ブロガー向け内覧会のお知らせね。
内覧会といったって、既に江戸東京博物館で始まっている「明治のこころーモースが見た庶民のくらし」

うーん、絵画や陶器じゃないから、なかなか、感想文書くの難しい展覧会かもー。
でも、行っちゃお。。

・・・ということで参りました。 
〔会場写真は博物館の特別許可を得て撮影したものです。会場入り口のパネルのみ、撮影可能となっています。〕

解説は副館長でもある小林学芸員。

曰く、大森貝塚を発見したということで、教科書で学んだことのあるはずのエドワード・モースの名前は知っていたとしても、その人と成り、そして、彼が日本に二年間に三度やってきて滞在した動機については、殆ど知られていない。

うん、確かに。名前は知っていても、彼が日本全国旅して、庶民を彩る鍋釜などの日常雑貨を2800点も集めたこと、これ以外に陶器も5千点集めたことなど、知る人ぞ、知るですよねー。

しかし、なんでまた使いかけの道具とかをそんなに集めちゃったのかしらね?!

ま、考えてみると
やっぱり、全く知らない文化のものって、珍奇なものとして目にとまりますよね、ましてや時は明治の初め・・・・今のわれわれが見ても、ナニコレ?的なものが次の章立てで陳列されています。

第一章 モースという人
このモースという人はコドモの時はどこの学校に行っても放り出されるような、ま、ヒトコトで言えば、変わった子だったらしいんですな。モノ集めにご執心だったところから言っても、今でいう「オタク」の部類だな。
実際、若いうちから「貝」の収集では早くから頭角を現していたみたいだから、「オタク」も極めていたということでしょう。もともとシャミセンガイの研究で日本にやってきたとはいえ、そのオタク魂がシャミセンガイへの興味⇒「貝塚」発見にも繋がったのでしょうから。

第二章 日本と日本人ー130年前の暮らしを彩る品々
この章ではモースが日本を旅した旅行地図、
また日記を纏めた「日本その日その日」という本を出版したそうですが、そんな解説から始まります。

いや、ムカシ書いていた日記を出版したのが、最初に日本に来た時から数えて40年、もう御歳79歳におなりになっていた時、というんですから、どんなきっかけだったのか?と不思議に思いますよね。

それはともかく、この章は更に細分化されています。
2-1 よそおう
2-2 たべる
2-3 すまい
2-4 こども
2-5 あそぶ
2-6 いのる
2-7 あきない
2-8 なりわい
ワザワザ歯欠けで泥もついているような
下駄まで集めた、ということで、裏まで
見せてくれちゃってます。



薄汚れちゃってますね、足袋


こんな竹の草履なんて見たことないなぁ

ムカシは確かに下駄やさんがあっちこちにあったんでしょうねぇ。いまや見つけるのは至難の業だけど。

手ぬぐいは今も再びブーム・・だけど

鏡付の団扇だなんて、今あるのかしら?
というか明治の頃だって珍しかったんじゃないかしら?
しかもこの赤の地のデザインは確かに
ハイカラというか斬新、西洋人向けだったのかしら?

今、お歯黒の女性を見たらびっくりするだろうなぁ、モースがびっくりした、というかぞっとしたのもわかるよね。


海苔の缶とそこに入っていた海苔・・・って・・スゴイ

箸は実は日本だけのものではなかったわけですが、ありがたいお言葉ですね。
でもこのミニチュアのおままごとセットの方が見るものを愉しませてくれますね。
今でも合羽橋商店街で外人に大うけの小さな食品サンプルの
ことを考えると絶対受けたに違いないと思ったりもし。。
おしろいやさん(左)と三味線やさん(右)の看板、どちらも今は店自体なかなか発見できませんね。

この八百屋さんの看板なんていいよね、今もあったら楽しいのに

順不同で写真だけならべちゃう感じになっちゃったけど、現代のわれわれも見たこともないような器具であったり、当時の海苔とかお菓子がそのまま瓶にはいっていたり、と、こういう収集の仕方もありなのねー、と感心しちゃいます。

小林副館長の説明では、使ったままのぞうきん、汚れた足袋、泥のついた下駄・・と使いかけのものでも集めたというのですが、頂いた図録を後で読んでいたら別の学芸員小山さんの解説を読んで納得。すなわち、「単なる生活民具で、あまりにありふれたモノだったため、人々は米国の博物館に入ると聞いて、喜んでモースにただであげたのだ。もしかすると彼自身も好んでほしくなかったモノもふくまれているかもしれない。」

とはいえ。。。。
私の知っている外国人の家にも戦後すぐに駐在した両親が集めたぽっくりとかが麗々しく額装されて飾られていて、それがなかなか、西洋の家の中ではエキゾシズムを奏でていて、ははーん、こんな風にするといいのか、なーんて思ったことがあるし、最近よく行く発展途上国では逆になんか、見たことないプリミティブな道具なんか見ると目を惹かれることもあるわけなんで、やっぱりガイジンから見たら、生活習慣も言葉も違う、(当時)なんとなく、未開の発展途上国と思っていた日本なのに、意外や意外、自分の国(米国)よりも歴史は長いわ、樽や桶を作る道具などの道具だって、

はさみなどは今も健在ですね。
実に精巧で、高い技術を持っていたことに、結構感動して、集めたんじゃないかなー、なーんて思いながら鑑賞しましたよ。


ありがたいことにモースさん、自分は写真もあまり撮ってないけど、日記にはイラストを入れたり、幻燈写真といわれる、モノクロ写真に色をつけたりしたものを沢山残してくれたおかげで、ちょっと不自然とはいえ、ビビッドな明治を再現しているというわけ。そして日記の言葉は「珠玉」ということのようで・・・確かにアイキャッチーだ言葉ですな~。

おっと、もう一章あった
第三章 モースをめぐる人々〔蜷川式胤の親交と陶器コレクション〕
モースさんがこんなにも多くのコレクションを形成することができたのは、モチロン彼の「興味」が原動力なんだろうけど、集めるに当たっては、周りで支えてくれた人たちがいたから・・という、当たり前だけど、忘れられやすい(?)ポイントにも焦点があたっています。ま、ここまで見てきて、ガイジンからは「珍奇」に思えるような品々は、ホント良く集めたよねー、とか、自分の興味範囲である貝に関連した砂糖菓子なんかはさすがに美しい。
 

と思う一方、美術品としてだけの価値を評価したら、趣味が大変良いとか、質が高いとかというような作品は見当たりそうもない、いや、そんな失礼な言い方をしちゃいけませんね、ま、でも正直な感想。

・・・な、わけですが、ま、だからこそ、彼のコレクション形成には日本の友人の力が必要だったわけですね。
そんな友人のおかげで5000にものぼる陶器コレクションがボストンで残ることになったわけですね。


ところで、小林学芸員がもうひとつ口にされていたこと。こどもを表現したかったと。
実際、展覧会の入り口にある拡大の幻燈写真の解説も実に力がこもってらっしゃる。

この子らがニコニコしていてとても幸せそうなこと、拡大してみたら、どうやらこの子たちは団子を食べていたようで、左の女の子は既に団子を食べちゃった見たいだとか、右から二番目の男の子がなんか面白いことを言った事が原因で皆が笑っているのだとか。。。
まぁね、当時の風俗の一ページということですっと通りがかるような写真にも思えるのだけど、
入れ込みたい気持ちになったのは、こんなモースの言葉があるからかなあ。
「世界中で日本ほど、子供が親切に取扱われ、そして子供の為に深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。」

平成に生きる私たちにとっては、このあたりが変わってしまったのかもしれない、ということも考えないといけないかなあと、明治の人の屈託ない幸せな日々に思いを馳せることになりました。

そんな学芸員さんたちの熱い思い入れが感じられる展覧会です。

あ、写真撮るの忘れちゃったけれど、売店面白いですよ。ムカシ風の箒とかいっぱいかかっていて、楽しい。

「明治のこころーモースが見た庶民のくらしー」
江戸東京博物館
2013年9月14日(土)-12月8日(日)