2016年10月24日月曜日

最終日に駆け込みましたー。 日本美術と髙島屋~交流が育てた秘蔵コレクション~《特別展示》豊田家・飯田家寄贈品展

用事があったので、昼休みにちょこちょこって行ってきちゃいました。だって無料だったし。
好きな竹内栖鳳の作品は昨年・・と思ったら2013年(時が経つのが早い。。。そして、感想文が未完だ)の「竹内栖鳳展 近代日本画の巨人」展でしっかり拝見させて戴いた、《ベニスの月》等の織物の下絵や《アレ夕立に》に再会できたのは喜ばしかったですが、大観の《蓬莱山》の隣にあった《富士》は無骨な感じで、ちょっと隣の雄大さと優美さに負けちゃったかなぁ。という感じで。
2013年といえば、この髙島屋の美術部に関連した「暮らしと美術と髙島屋」展を世田谷美術館でやってたけど行けなかった事を思い出しましたよ。今回一部だけなのかもしれないけれど、それを見られたということなのかな?
目に留まったのは巨大な川端龍子の《潮騒》。ポスターにも使われていますが(ちらしには使われていない)、画面の中央に岩場があってまるで飛び出してくるように(いや、絵面的には岩場が海に突き出ているんだけど)迫力があって、群青色の海を描く左画面と薄い水色の海の右画面が、その視覚的効果を生み出しているとは、後で気づくのだけど、非常に大胆で印象的でした。
あとは、大観の杉戸絵―呉竹庵杉戸《竹》 いつもみるような大観の杉ではあるんだけど、大胆な筆致が杉戸にぴったりあっていましたねぇ。
大胆といえば、富岡鐵斎が揮毫した《髙島屋美術部》 絵と同じく、わちゃわちゃした感じではあるんだけど、勢いがあって良い感じ。
あと《キモノの大阪 春季大展覧会ポスター(復刻)》とその原版である《婦人図》北野恒富が、一瞬、あれ?これ日本初ヌードポスターの赤玉ポートワイン?と思う程、女性の髪型とかも似たイメージ。でも考えたらこちらは半身しか脱いでないし、逆にみぞおちの下まで描かれている。。絵に留まっていればこそだけど、ポスターになっていたら、やはりセンセーショナルだったかもなぁ。。(この方が時代は新しい昭和4年ですが)このポスターには与謝野晶子の短歌も添えられているという豪華版。
最後の部屋は姻戚関係になった髙島屋の飯田家とトヨタ自動車の豊田家からの寄贈品展だけど、なんか、人も混んでいてごちゃごちゃしていて、良い作品だったかもしれないものでもちょっとね。
髙島屋さんのHPでの解説です。




大観、栖鳳、青邨、龍子、魁夷と、魂を揺さぶる日本美術が一堂に。

この度、高島屋と日本画家たちの交流をご紹介する、「高島屋史料館所蔵 日本美術と高島屋~交流が育てた秘蔵コレクション~」【特別展示 豊田家・飯田家 寄贈品展】を開催いたします。
天保2(1831)年、京都で産声をあげた高島屋は、創業期の呉服店時代より誇りと伝統を有し、歴史を重ねてまいりました。
本展では、その長きにわたる歴史の中で、高島屋の名の下に集まった日本画の名品を一堂に展観し、近代日本の画家たちが高島屋と如何なるかかわりをもって自らの芸術を高めていったのかをご覧いただきます。
横山大観、竹内栖鳳をはじめ、鏑木清方や前田青邨、川端龍子など、約60点に及ぶ展示作品が高島屋に収まったエピソードも交えてのご紹介です。
また今回は、高島屋四代飯田新七の娘・二十子(はたこ)が嫁いだトヨタ自動車創業家の豊田家と高島屋創業家の飯田家から、大阪の高島屋史料館に寄贈された貴重な作品も特別展示いたします。

「高島屋史料館所蔵 日本美術と高島屋」特別ページはこちら>>
高島屋史料館所蔵 日本美術と高島屋



髙島屋史料館所蔵 日本美術と髙島屋
~交流が育てた秘蔵コレクション~
《特別展示》豊田家・飯田家寄贈品展

  • ■10月12日(水)24日(月)
  • ■8階 ホール〈入場無料〉
    ※ご入場時間:午前10時30分~午後7時(午後7時30分閉場)。 最終日10月24日(月)は午後6時閉場。
主催:朝日新聞社 企画協力:名都美術館

2016年10月22日土曜日

速水御舟の全貌ー日本画の破壊と創造ー 青い日記帳×山種美術館 ブロガー内覧会 に行ってきたよ

山種美術館が主催する 青い日記帳X山種美術館 ブロガー内覧会に久しぶりに参加させていただきました。なんといっても、旧安宅コレクションの御舟作品を一手に引き取り、御舟美術館と言われるほどの作品をお持ちであり、また山崎館長のご研究の対象でもあるわけですから、是非館長のご解説をまた聞かせて頂きたいと思い参加しましたーー。
一番に並んじゃいましたよー。
https://www.facebook.com/pikachann2008/posts/1099928080076365?pnref=story

受付を済ませて、先ずは階下に降りていきますと、窓のある入口、ちゃんとその窓に掲示がはまるように設計されていたと以前伺いましたよねー。でも人の往来が多いとなかなか確認できないのだけど、今回は一番乗りの特権で!
展示室入口の窓★

解説を聞く前にまずは、HPの解説をチェキッ!
山種美術館は、山種証券(現・SMBCフレンド証券)の創立者である山崎種二(1893-1983)が、個人で集めたコレクションをもとに、1966(昭和41)年7月、東京・日本橋兜町に日本初の日本画専門美術館として開館、2016年に50周年を迎えました。種二は「絵は人柄である」という信念のもと、同時代の日本画家たちと直接交流を深めながら作品を蒐集していきました。
明治末から昭和の初期に活躍した日本画家・速水御舟(1894-1935)は早世したため、一つ違いという同世代でありながら種二が実際に会うことはかないませんでしたが、機会あるごとに御舟の作品を蒐集し、自宅の床の間にかけて楽しんでいました。1976年に旧安宅産業コレクションの御舟作品105点を一括購入し、計120点の御舟作品を所蔵することになった山種美術館は、以来、「御舟美術館」として親しまれてきました。このたびの展覧会では、開館50周年を記念し、当館の「顔」ともいえる御舟コレクションに、他所蔵の各時期の代表作品も加え、初期から晩年にいたる御舟の作品約80点でその画業の全貌をふり返ります。
「梯子の頂上に登る勇気は貴い、更にそこから降りて来て、再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い」と語り、新しい日本画を目指して努力と挑戦を続けた御舟は、40年という短い人生の中で、一つのところにとどまらず、生涯を通して新たな表現に挑み続けた画家でした。
本展では、研鑽を積んだ修業時代や画塾の兄弟子・今村紫紅の感化を受けた時代から始まり、洋画家・岸田劉生や西洋画、宋代院体花鳥画などへの意識から生まれた写実への追求、代表作《炎舞》以後の新たな日本画への挑戦、さらに渡欧後に取り組んだ人体表現や晩年の水墨による花鳥画に至るまで、御舟の各時期の代表作品を集めて展示いたします。当館の御舟コレクションと他所蔵の御舟の名品が一堂に会する23年ぶりの大回顧展です。
本展の
みどころ
1. 速水御舟の2つの重要文化財、《炎舞》《名樹散椿》が7年ぶりに同時公開!
重要文化財に指定されている御舟の《炎舞》《名樹散椿》(いずれも山種美術館蔵)が同時に展示されるのは、2009年の速水御舟展以来、7年ぶり。最高傑作といわれる作品を同時にご覧いただくことで、各時期に御舟が到達した境地を知ることのできる貴重な機会!
2. 山種美術館所蔵の御舟作品に加え、他所蔵も含めた御舟の各時期の代表作品が一堂に会するのは23年ぶり!
  120点にのぼる山種美術館の御舟コレクションから選りすぐった代表作品に、《萌芽》《洛北修学院村》《京の舞妓》《菊花図》《鍋島の皿に柘榴》《木蓮(春園麗華)》《円かなる月(絶筆)》など、初期から晩年までの各時期の優品25点を加えた約80点を展示。40年という短い生涯で、作風を次々と変遷させていった御舟の軌跡をたどる。

章立ては以下の通りです。
第一章 画塾からの出発
第二章 質感描写を極める
第三章 《炎舞》から《名樹散椿(めいじゅちりつばき)》へー古典を昇華する
第四章 渡欧から帰国後の挑戦へ
       渡欧体験/人物画の模索/花鳥画の新展開

今回も、山種美術館さんのご了解を得て、撮影した一部写真を掲載(★印)していますが、通常は撮影禁止です。無断転載もお断りさせていただきます。(尚、いつもはブロガー内覧会にての写真撮影に関し大変寛容な山種さんですが、今回は著作権が切れていても他館からお借りしていて鑑賞風景の中に写り込まないよう、第一章から第三章の途中までくらいのエリアとあと数点写真撮影が制限されていました。制限されていた写真はスライドで解説していただいた時の写真とチラシを一部掲載させていただきます。スライド写真でクレジットの入っているものには注記はしていません。)


さて、お待たせしました。まずは、TAKさんが見どころを一言紹介。

見どころは「展」ではなく「全貌」
つまり、《炎舞》に代表される作品一点一点を見せる展覧会ではなく、御舟その人そのものの多様性、同じ人物の作品とは思えないその変遷を見せようという意欲を表しているという事。だって、群青に狂って、ピカソのように「青の時代」があったことなんて、よほど御舟好きでなければ知らないですものね。でも、青というか緑に全面覆われた《洛北修学院村》のような作品を見れば、それがよくわかる、という前振りの後、その、青の絵の前で館長が解説を始められます。。

14歳で歴史画を得意とする松本楓湖(まつもとふうこ)の安雅堂画塾に入り、そこにあった《伴大納言絵巻》《鳥獣戯画》《信貴山縁起絵巻》などの粉本(お手本のことですね)を模写しながら腕を磨いていた御舟。最初の覗きケースの中は《瘤取り之巻》、粉本通りの模写とは言いつつ、墨の擦れなど濃淡をうまく使ったり草花の描写などは味わい深いとのこと。
それからすぐあとの《錦木》の背景の薄にはたらしこみ・・すなわち琳派風の描き方がみえたり、笠と髪色の黒は前者が墨、後者は溶いた岩絵の具で質感を変えているなど、質感の違いを強調したり、隣の《焚火》では春草などの朦朧体を取り入れるなど、早くも(19歳!)様々な描き方に挑戦していることが見て取れるそう。《錦木》は近くによると雲母が使われているのか、きらきら光って見えますよね。(図録にも書いてなかったけど。。。汗)
そして、スケッチもよくしていたせいで、例の「青の時代」の《洛北修学院村》の今も変わらぬ実景が描かれたそう。ただ、この作品は山を見上げる視点と、農村を見下ろす二つの視点が共存し、幻想的でカラリストの一面がよく見えてもいるとの解説。描いた当時はバルビゾン派よろしく修学院離宮あたりの農村に住んでいたとのこと。一目見た色のイメージだけでいうと、どうしてもあのような深い緑の連続は東山魁夷を思い出してしまったのは私だけかしら。まったく似てはいないのだけどね。
振り返った反対側の壁にかかった《黄昏》などの作品も「青の時代」だったんだろうな・・と想像が付きやすいわけですが、それも短い時期で、後期というのか11月22日から展示替えとなる《京の舞妓》(1920年大正9年)くらいからは《茶碗と果実》《白磁の皿に柘榴》《鍋島の皿に柘榴》のような静物画を描くように。実は大正10年の結婚のお返しとして金地色紙に描いた作品が18点あるそうで、行方知らずのものが多い中、二点が隣り合っているという次第。
展示室で最初に掛かっているのが鍋島の方の柘榴だけど、これは色紙よりもっと大きく、余白を大
速水家の鍋島のお皿
きくとって、西洋画のように陰影を大きく描いているし、この皿を見る上からの視点と柘榴の横から視点の混在、余白を生かす為の徽宗皇帝風の痩金体をこの頃から使っていることなどと合わせ、館長のお好きな作品であることも紹介されましたね。伊勢海老が白磁のお皿に絵付けされているせいで、私的には《白磁の皿に柘榴》が捨てがたい思い(ただの食いしん坊)がありますがね。
脱線するけど、今回《炎舞》の中国絵画の影響を指摘された板倉先生が、実は山口晃さんも痩金体ですよね、と指摘された、とか、鍋島の皿は御舟が義理の弟さん(しかもトーハクの陶磁担当だった!)に見せる時に、彼を驚かそうとして子供たち(3人!)を一人一人箪笥の引き出しに入れていたら、二人目を入れたところで重みで箪笥が倒れて、一緒に滑り落ちて一部が欠けてしまった、とか、話の引き出しも、さすが、館長の研究対象だけあって今回はいつも以上に沢山あって、本当に楽しかったなぁ。絵からすると、神経質で完璧主義者のように思いたくなる御舟が家族思いでいたずらっ子でもあったなんてほのぼのしますものね。
その引き出しに入れられちゃったかもしれない長女の彌生さん(なんと92歳で聖心会のシスターなそうな)の初節句を祝って描かれたという《桃花》。
これを拝見するのは何度目なのかなぁ、少なくとも3度は見てるけど、丁度トーハクでの「北京故宮博物院の200選」の展覧会で徽宗帝の文字を見た直後に、「ザ・ベスト・オブ山種美術館展」に来てこの絵を見たものだから、よく似てるな、と感じていたら、当時館長の解説で徽宗帝の折枝画風で痩金体を使っているとお伺いし、(やっぱりー)と思った絵だったので強い印象があります。今回も「宋代院体花鳥画」の美しさを若い時期に見て模写しているので、そうしたものを描いたこと、素材は綿臙脂と胡粉を混ぜて使っているというのは以前にもお伺いしましたが奥村土牛の《醍醐》にも使われている色の使い方。本当に可愛らしくて、何度見ても引き込まれます。
花でいうとその近くの《日向葵》(フツー、ひまわりを漢字変換すると向日葵という順番で出るんですけどね、これは《にっこうき》と読ませるらしい)はゴッホを意識したのではないか、とのお話。岩絵の具で黄色は大変なのかもしれないし、多少の塗り重ねは見受けられるものの、あんな厚塗りではないし、近くに寄ると葉脈が細かく(白く)描かれていて、印象はだいぶん違うので、どこか意識したところが本当にあるのかなー、という感じではありますが。

解説の方は場所を変えて一気に壁の反対側に行くのですが、その途中にあった大正14年の《樹木》に私は目を奪われてしまいました。ま、初めて見たからという事もなくはないのだけど、その異形については、かなりグロテスクとも言えるわけで。
《炎舞》を描きに軽井沢に行った時に見たブナの木をスケッチしたとは言え、幹が木の周りをまとわりつく感じは解説では人体を想起させるという不思議な形だし、寄ってみるとスーラ張りの点描のような描き方で緑の色が置かれていたりして、強い印象です。(写真撮れないエリアでしたので、スライド解説の写真を上げますが、色合いが違うので、是非その目で確かめてくださいな。私は一応図録という媒体で記憶を新たにしてますが。。苦笑)

強い印象の絵はもう一枚、キュビスティックなフォルムの《灰燼》。
これもいつぞや見たことがあるとはいえ、全貌の文脈の中で見ると、周りのどの絵とも違う描き方をしていると思うのです。関東大震災に自らも遭遇しながら、その爪痕を冷静に切り取り描くという作業ができてしまう御舟の凄さを感じてしまいます。

このエリアには、その絵の為に造られたという第二室で待ち受けている、妖しい光を放つ《炎舞》の後に描かれた《昆虫二題 葉陰魔手・粧蛾舞戯》の比較的大きな絵も並んでいます。
解説はなかったのですけど、この粧蛾舞戯、《炎舞》よりずっと前に描かれたとばかり思っていたので、今回初めて翌年と気づいてびっくりした。なんか、こちらの方が炎がなくて中心に向かって大きく渦巻く太陽のような光をバックにして明るく描かれているせいか、重ねられた習作のようにしかとらえてなかったんですねぇ。だから、なんか、なんだろう、肩すかしというのか、少し不思議な感覚を持っています。ただ、スライド解説の時に見せていただいた蛾の種類図に《炎舞》よりも、対応しそうな感じもうけました。

そして、既視感のある《木蓮(春園麗華)》、どこかで見たような気がすると思ったら、つい最近サントリー美術館でみた鈴木其一の《木蓮小禽図》(所蔵は岡田美術館)に似ているんですね。。このあたりは学習し変化していく途中のものだからかしら。

さて、解説に戻ります
《木蓮》の隣の最後の撮影ができなかったエリアに大きな四曲一双の屏風《翠苔緑芝(すいたいりょくし)》がでーんと鎮座ましましているわけです。琳派を強く意識して描いたものとの事。今や400年とかもあったせいで、琳派琳派とはやされているわけですが、明治以降は忘れ去られた琳派が昭和のはじめに再評価され始めた頃に描いた(昭和3年)との事。奥様によれば、目黒の家にあったもの―青桐、枇杷の木、ウサギを描いたそうです。


これは金箔地に
右隻の苔の表現や左隻のウサギなどは宗達の杉戸絵を意識しつつ、平家納経の扉絵のデフォルメではないかとの解説だったのですが、うーん比較できる絵が思い浮かばない。。どこかで調べなくちゃ。一方で、アジサイのひび割れたような表現は琳派とはかけ離れ、独自の創画ではないか、奥様やお弟子さんによれば「胡粉で盛り上げた後に卵白で」とか「薬品で」ひび割れたようにした、とかなんとか、はっきりしないのはフジタの乳白色のように、本人のみぞ知る方法で洋画のような質感を出す為に編み出そうとした描法なのでしょうかね。
そういえば、御舟が岸田劉生の事を意識していたというお話もありましたからねぇ。
そのほか右隻の枇杷の黄色とかオレンジは岩絵の具ではない色なので、他の染料や顔料を使った可能性や、昭和3年に描かれたにもかかわらず一か所の剥落もないそうで、これも何等かいろいろな種類の薬品を親戚の薬屋から取り寄せて使っていたのではないか、とか。。
私的には、木の形とかがアンリルソーか?という印象でありつつ苔や芝生のエリアはまあるくポップなデザインに仕上がっていること、右隻の黒猫は春草の《黒き猫》をさらにポップにした感じだなぁとかとは思うのですが、後世に無名の作家が残ってもこの絵だけは面白いと言ってくれるだろう、とご本人が自信を示すほどは全体の印象の強さはないように思うのです。つまりいろいろな試みがされた、まさに革新的な要素はあるんだけど、バランスとしてどうよ、、、というところが少し残るんだなぁ。。ま、好みの問題ですが。

その点、(さぁここからは撮影可能エリアですぞ)《名樹散椿(めいじゅちりつばき)》は、圧倒的な存在感と、そのぬめっとしたぴかぴかの金砂子の撒きつぶしの超フラットな地が印象的だし、破綻がない感じ。椿の枝ぶりは対角線上に右上から左下に向かって下がっていくけど幹そのものは斜め右に向かっていて左下にボリュームがあるので、安定感も備わっている。、花びらが散っている緑の部分は《翠苔緑芝》のようにやはりゆるかやな丸みを帯びた地面でそこから滑らかに幹が立ち上がっているという感じも似ていますよね。
金砂子の撒きつぶしの技法比較のパネルは「輝ける金と銀」の時にも箔押しと、金泥との見本を並べてその質感の圧倒的な違いがわかるように見せてくれている
左から金箔押し・金泥・撒きつぶし ★ :
やはり箔押しは煌めいてはいるけれど、箔の形が見えますよね
重要文化財:《名樹散椿》 1929年 紙本金地・彩色 山種美術館蔵 ★
わけですが、今年の夏に「金箔」で砂子撒きの実習を根津美術館で体験した私的には、それがどんなに大変根気がいるかも、フラットに重ねていくことがどれほど大変なことかが身をもって分かっただけに、どうやったらこんなに美しく撒くことが(それも自分でやったとなると本当にすごいわーー)できたのか、館長は10代後半の時に蒔絵の手ほどきを受けているからとの説明ではあったけど、合わせて言われたように、御舟はよほどの完璧主義者であったことがうかがえますね。
制作中の御舟の写真パネル★ 
バックの絵もちょっと似てるけど何だろう?
あ、もちろんお金の面でも撒きつぶしの方が箔押しに比べてもはるかに贅沢に金を使うわけですが、その資金はホテルオークラの大倉男爵がローマでの日本美術展覧会の後援をしてくれたからこそのものだったとか。
その時の写真もスライドで見せてくれましたが中央の掛け軸は大観のだとか。
ローマ日本美術展覧会会場での《名樹散椿》の展示風景
真ん中の大観の軸の為に大工さんを連れて行ったとか、本格的です
そういえば椿はふつうぽとんと首から花が落ちるので戦国武将からは嫌われ、散椿はひとひらひとひら花びらが落ちる山茶花タイプのようです。京都の通称椿寺と呼ばれる寺の庭に古いものがありこれをスケッチして描いたけど、目黒の自宅にもあったそう。
館長曰くはフリーア美術館所蔵の鈴木其一の《白椿》も意識したのではないか、との事だし、椿の花と花びらはバランス的には実際の花の大きさよりも大きく描かれていることで、そういった目をだまして印象を強めるという手法なんでしょうね

さて、このエリアからはサブタイトルにあるー渡欧体験に関する絵が9枚程。
★ 《埃及土人ノ灌漑》 1931年 絹本・裏箔・彩色 山種美術館蔵
《埃及土人ノ灌漑》なんて今だったら、なんかクレームきちゃいそうなタイトルも絵を見ればクレーム忘れてほっこりちゃうシンメトリー感とほのぼの感。
観賞の時は説明よく読まなかったけど、これ、裏箔なんですね。ちょっともう一回見に行く時によく見なくちゃ!

《波南のサンパン》も同じような雰囲気を醸し出してますが、これも残念ながら撮影許可エリアの中の不許可作品で、是非にその綺麗なカラーを見にいらして欲しいわ。(そしてこれも裏箔だ!雰囲気似てるし。)

撮影不許可作品では、大好きなエル・グレコの影響を受けて細長い・・と称されている《花ノ傍》があるのですが、この縞柄の着物のせいで、非常にモダンでおしゃれな感じのステキな絵です。縞柄の着物の柄は安井曾太郎の《婦人図》を想起させますが、更に御舟が徹底しているのは、着物の柄だけではなく椅子もテーブルクロスも全て縞なのに邪魔し合ってなくて、でも女性の頭の上に花がのっかったような(花の傍らに女性が座っているから)、更に縦長感を強調するようになっているのは、御舟の計算なのでしょうかねぇ。
足元のわんこも、狐のようでありながら白いモフモフの毛の一本一本の柔らかさが伝わってくるような描きっぷりで、凄く魅力的です。
スライドでお見せ戴いたので、そのわんこの写真も併せご覧いただきましょうか。


←実際のわんこも結構細面ですものね。

館長によれば、奥様と娘さんたちを宝塚や歌舞伎にも連れ出した御舟ですが、その理由がふるっています。観劇が目的ではなく(いや奥様・娘さんにとっては目的でしょうが)、そこに集う女性たちのファッションを観察する為だったそうですよ。今時のようにファッション雑誌が跋扈している訳でもないから、女性の着物や持ち物を観察してスケッチをしていたみたい。
この絵は歌舞伎座で見たことあるような気がしてるんですが、いずれにしても本展後に歌舞伎座に行ったら要チェックですね。ホント素敵。


さて、研究熱心で集中力のある性格は、大家になっても変わらず、弟子たちと共にヌードモデルをスケッチする研究会を発足したりしたそうです。ま、線は硬いけど、と館長。

その点、ある種日本画らしい、美しさを最大限引き出しているのは花鳥画の、特に花部門ですかねぇ。
もともと好きな 《紅梅・白梅》(どこがどう好きかは「琳派から日本画へ」の感想文の時に書いたのでここでは割愛。

★《紅梅・白梅》 1929年 絹本・彩色 山種美術館
山崎種二さんもとてもお好きだったというのを図録で読んだ気がします。

これは縦に伸びる紅白の梅のコントラストですけど、今回の注目点は「横に伸びる枝振り」ではないでしょうかねぇ。あ、これ、解説ではそういうお話はなかったので、私の感想ね。まぁ、題材となっているそれぞれの樹は枝が横に伸びていても不思議はない性質なのだけど、必要以上にその横に伸びる性質が強調されているのではないか?とか思ってしまう。とにかくそれだけ印象を強く残すことに成功しているのではないか、と思うのです。考えてみると《名樹散椿》だって、横というよりは下に向かってだけど枝振りのちょっと変わったところというのが全体の印象を決めているわけですから、御舟がそういう潜在意識をもっていても不思議はないようにも思うのだけど。

具体的には、《あけぼの・春の宵》のようにそもそもの構図そのものというのか、
★ 《あけぼの・春の宵》 1934年 紙本・彩色 山種美術館
画面を横に枝が伸びる感じが強いわねくらいで、断定はできないのだけど《暗香》
★ 《暗香》 1933年 紙本・彩色 山種美術館
本当に目には見えなくても甘い香が漂ってくる感じがしちゃいます
とか《椿ノ花》は、画面を水平にくらいの勢いで横に枝が伸びている。《夜桜》しかり。
★《夜桜》 1928年 絹本・彩色 山種美術館
彩色?ええ、ピンクではないけれど胡粉の白、そして葉っぱの葉脈に金が見えます
極めつけは、絶筆となった《円かなる月》。
写真が撮れない作品でしたが、画面の左下にグレーの満月、左脇にわっかのように一部だけ顔を出している幹、そこから右下に向かって伸びている細い枝の先に松葉が生えているんだけと一部だけ赤。そして右からも細い枝がこれは水平に伸びているという、きっと、これは下から仰ぎ見たような視線でもあり、でも真横から見ているような雰囲気もある。
極めて不思議な印象が強い。場所が《炎舞》の部屋だった事もあり、狭い角にあったからなのか、真近でみちゃい過ぎたのか、強い印象を与えてくれる絵でした。

さぁ、部屋がとの話となったので、《炎舞》です。山種さんは光の透過率が高い、つまり反射の少ないガラスを使われている筈なのですが、それでもね、やっぱり廻りの風景が写り込んでしまいうまく撮影できないのよね。(腕がないからですが)
★ 重要文化財 《炎舞》 大正14年 山種美術館
いや、撮影できないと言う前に、見るにしても、昔程は近づけない(三番町の頃の展覧会の時はもう少し囲いとの距離がなかったと記憶している)ので、なかなか難しさはあるのですが、逆に妖しさというのかな、そういう感じは強くなったように思うのです。ま、そんなことも解説はされてませんが、今回の解説で新たに知った事を御紹介。
徽宗皇帝の痩金体はもちろんの事、徽宗皇帝の絵画の学習成果については今までも指摘されているわけですが、《炎舞》の中心モチーフである炎は《伴大納言絵巻》とか仏画に出てくる炎(閻魔様のとか。。)が強く意識された火焔表現のようですが、その炎の周りを舞っている蛾の構図にも実は元ネタがあるのだ、というお話です。


これは図録の中で触れられているそうですが、それがなんとトーハクの東洋館にある《草虫図》(14世紀元時代)なんだそうですよ。今なら写真もとれると言われたので、ホイホイいっちゃいましたよ。
《草虫図》 14世紀 元時代 絹本・着色 東京国立博物館
だけどなーー。これもガラスケースの壁に阻まれて(イイワケ)、立葵の周りを舞う蛾のを見ても、そんなにはっきりと《炎舞》がこれを粉本にした、と言えるのかはよくわからなかった。ただ、この《草虫図》をお手本にしたかしないかは別としても、南宋院体画であるとか、そういった中国からの作品にもきっかけを見つけようとして、色々勉強していたのでしょうね。

でも、ご本人自身「二度と描けと言われても描けない」と行ったと言われるこの表現は彼が色々な学習をした成果だけではなく、やはり天賦の才があるからに違いないわけで。。。


わずか40歳で夭折してしまっただけに、生き急いだようにいろいろな手法に取り組んだ流れが垣間みられる今回の「全貌」展。
お話も面白く、解説の後もゆっくり見回っていたら、しまったー、一階にあがり、戴けることになっていた絵に因んだ和菓子のうち、《炎舞》に因んだ「ほの穂」だけ既に無くなっているーーー。以前《紅梅・白梅》に因んだ「春慶」を戴いたことがあったので、《翠苔緑芝》に因んだ「緑のかげ」を戴くことに。写真だけは、偶々来ていた美術仲間のゲットした「ほの穂」の写真を撮って、
自分の戴いたのは忘れるというテイタラクでしたが、アジサイ部分がゼリーみたいで美味しかったです。
山種美術館さん、どうもありがとうございました。
後期も入れ替えがあるので、参りたいと思います。

【開館50周年記念特別展》
速水御舟の全貌ー日本画の破壊と創造ー
山種美術館
2016年10月8日(土)~12月4日(日)
前期:10月8日~11月6日 (《洛北修学院村》は11月20日まで)
後期:11月8日~12月4日 (《京の舞妓》は11月22日から)