2015年8月16日日曜日

ついに東の大関に出会った~♪ 藤田美術館の至宝 国宝曜変天目茶碗と日本の美@サントリー美術館

明治の実業家・藤田傳三郎氏(ふじたでんざぶろう・1841~1912)は、明治維新後、廃仏毀釈によって仏教美術品が失われる危機を憂慮し、仏像や仏画などの文化財保護に尽力しました。また、茶の湯を趣味とする数寄者(すきしゃ)であった氏は、茶道具に対しても卓抜な鑑識眼をもち、「交趾大亀香合(こうちおおがめこうごう)」をはじめ、稀代の逸品を収集しました。
藤田美術館は、傳三郎氏と、長男平太郎・次男徳次郎両氏の2代3人による収蔵品を公開するために、昭和29年(1954)大阪市に開館しました。仏教美術と茶道具に限らず、絵画、墨蹟、漆工、金工、染織など多岐にわたる収蔵品は、文化国家として美術品を広く公開することを目指し、系統立てて収集を行なった傳三郎氏の高い志がうかがえます。量のみならず質的にも充実した2,111件の収蔵品は、天下の名碗「曜変天目茶碗(ようへんてんもくちゃわん)」など9件が国宝に、52件が重要文化財に指定されています。
藤田美術館では、春と秋の年2回企画展が開催され、鑑賞者の眼を喜ばせていますが、永らく館外での公開が待ち望まれてきました。今回の展覧会は、国内有数の東洋・日本美術コレクションを誇る藤田美術館の至宝を初めて東京で一堂に公開する待望の企画展です。
(美術館HPから)

以前、出光で知った安政二年「形物香合相撲」という番付。
http://pikarosewine.blogspot.jp/2013/06/blog-post_26.htm

あの時は染付の特集で北宋の周頓頤(しゅうとんい)、通称は周茂叔(キッパリ引退して毎日釣り糸を垂れる生活をして過ごしていた)という文人をモチーフにした《古染付周茂叔文香合》が番付に載っていたわけですが、勿論前頭何枚目というような順位でしたね。

今回、展示の最後にこのコレクションを創った藤田傳三郎が長らく欲し、亡くなる10日前に入手できたという報告を聞きながら手にすることはなかったという《交趾大亀香合》が登場したのですが、これがなんと東の大関♪


これ以外に東前頭10枚目《交趾大獅子香合》も展示されていました。嬉しい。

あ、勿論、この藤田美術館の目玉はタイトルにあるような曜変天目茶碗。

青くきらめく星空のような美しい景色は、静嘉堂の持つ曜変天目よりは控えめな曜変だけど、美しい。ただ、ちょっと残念なのは一部口縁から下が剥がれている事。なるほど、ちらしやポスターの写真は全面ではなく一部の撮影になっているのはそのせいなのかしら。

そして感激するのが快慶作の《地蔵菩薩立像》。素晴らしい法衣の襞のイキイキとした流れ、美しい姿態。

名品としては茶の湯の道具が多いけど、古今和歌集の断簡とか、《紫紙金字華厳経》、《今日法蓮華経》、伝俊成、伝貫之等の文字の美しさを見るだけでも楽しくなる色紙や料紙の美しい《深窓秘抄》等、見ているだけで幸せ。

会期末までにもう一度行こう♪


藤田美術館の至宝
国宝 曜変天目茶碗と日本の美
2015年8月5日(水)~9月27日(日)

サントリー美術館

2015年8月15日土曜日

コトリの囀りを聴いたよ――――根津美術館 コレクション展 絵の音を聴く――雨と風、鳥のさえずり、人の声

絵を見て、そこにあるべき音を想像するのは楽しいものです。くちばしを大きく開けてさえずる小鳥たちの声、龍虎が巻き起こす風や雲の轟音、また、山水画に表された雨風や瀧の音、そして、名所絵の群衆の賑わいなど、音を感じとることができる絵画作品は少なくありません。かつて、中国の文人たちは、部屋に横たわりながら胸中の山水に遊ぶことを「臥遊(がゆう)」と呼んで楽しみました。心を澄まして絵の中に入り込むことができれば、現代の私たちにも、きっとさまざまな音が聞こえてくるはずです。
 絵の音を聴くことによって、その作品の新しい魅力を発見してみてはいかがでしょうか。

(美術館HPより)

いや、ひんやりした美術館に入るだけで、嬉しい今日この頃、お盆休みという事もあって、出足が悪くて本当に良かった。
いくら、解説で「臥楽」と言われても、中国の文人程心を澄ますことはできず、いつもは必ずと言っていいほど、関係ない話をべちゃくちゃおしゃべりしている人たちに気を取られて、集中できない私としては、静かな環境の中、聴こえてきましたよ。

コトリの囀り、鳴き声、風の音、川の流れ、雅楽の調べ、瀧の音・・・

《四季花鳥図屏風》の一部、くわっつ、くわっていう鳴き声が聞こえてきましたよ。


特に気に入ったのは、最初の「鳥たちの楽園」 伝狩野元信作の大振りな六曲一双の《四季花鳥図屏風》には多くの鳥たちが自由に囀り、叫んでるのが好き。
およそ70羽が遊んでいるこの作品は、実は元信ではなく息子の松栄の作品である可能性が指摘されているそうですが、楽しげな鳥たちがイキイキしている限り、作者がどちらでも関係ないかー、と思わされますよね。


美術館的には目玉は基一の《夏秋渓流図屏風》だろうことはよくわかるけど、この色遣いは好きでないの、毒々しすぎて。だから軽やかな渓流の音には聞こえなかった。心模様が音にも影響しちゃうなぁ。

隣の雪舟による《龍虎図屏風》。右隻に龍、左隻に猫のような虎という構図はどこにでもあるようなパターンではあるけれど、虎の後でなびく竹の葉にびゅうびゅうという風の音が聞こえてきた。やはり絵に入り込む度合いというのが影響するのかな。

今度サントリーで特集される久隅守景の《舞楽図屏風》からも笙や龍笛の音が・・・

単眼鏡を使わないとよく見えないけど、全体のバランス、細かい描写が素晴らしいのが岩佐又兵衛の《傘張虚無僧図》。そのディテールの美しさに感嘆して音まで集中できなかったけどね。

瀧を見る文士を描いた式部輝忠筆の《観爆図》、上から落ちる三千尺の瀧を下から見上げる文士は四頭身か?というくらい頭は大きいのに、全体としては絶妙なバランスを保っているのが印象的です。

文人たちのような余裕はないけれど、ほんの少し、そんな愉しい時間が持てただけでよかった。

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根津美術館は何時でも同時開催のテーマ展示がありますけど、今回の展示室6 の茶の湯関連の展示品はどれも逸品が多かったし、福島静子氏が寄贈された蒔絵の品々のコレクションも良かったな。。


コレクション展
絵の音を聴く
雨と風、鳥のさえずり、人の声
2015年7月30日(木)〜9月6日(日)
根津美術館



2015年7月29日水曜日

なかなか、子供の線を再現するのって難しいと思うのよねぇーー @原美術館 /サイ・トゥオンブリー紙の作品、50年の軌跡

 原美術館では、20 世紀を代表する巨匠サイ トゥオンブリーの個展を日本の美術館として初めて開催し ます。この展覧会は、2011 年に死去した作家が生前自ら作品の選定に関わり、サンクトペテルブルク のエルミタージュ美術館、欧米の主要な美術館で開催され評判を呼んだ個展を、当館の空間に合わせ て再構成したものです。トゥオンブリーの即興性、速度、激情、直感が、いきいきと横溢する紙の作品 (ドローイング、モノタイプ)約 70 点が一堂に会し、その 50 年にわたる孤高の画業を紹介する画期的な 機会となります。なお、別館ハラ ミュージアム アーク(群馬県渋川市)でも出品作品の一部を展示い たします。

本展は、サイ トゥオンブリーの類まれなキャリアを、紙の作品(ドローイング、モノタイプ)によって回 顧するもので、1953 年から 2002 年までの 50 年間に制作した紙の作品約 70 点を紹介いたします。本展 は、2003 年にサンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館で開催された展覧会が原型です。これ は、同館初の外国人キュレーターであるジュリー シルヴェスター(現・サイ トゥオンブリー財団)が企画 し、トゥオンブリー自身が作品の選定に関わったものです。トゥオンブリーは残念ながら 2011 年に亡くな りますが、サイ トゥオンブリー財団の全面的協力により、このたび原美術館で開催することとなりました。 日本ではいくつかの美術館がトゥオンブリー作品を収蔵しており、美術館のグループ展には何度か 取り上げられてきましたが、残念ながら美術館規模の個展は日本でまだ行われたことがありません。 その意味でも、本展の意義は画期的と言えます。 なお、出品作品の一部は、原美術館の別館ハラ ミュージアム アーク(群馬県渋川市)の特別展示室 「觀海庵」において展示いたします。床の間と違い棚を備えた書院造を引用した和風の展示空間(設計 磯崎新)の中で、通常「觀海庵」で展示する古美術作品(原六郎コレクション)と、トゥオンブリー作品を対 置する形で展示いたします。「手で描く/書く」という表現行為に全精力を傾けるトゥオンブリーの作品が、 また違った印象を生み出すかもしれません。東西の文化圏や近世と現代という時代の違いを超えた美 の対話をご鑑賞いただけることでしょう。 

【サイ トゥオンブリーとは】 サイ トゥオンブリー(Cy Twombly, 1928-2011)は 20 世紀を代表するアーティストの一人です。絵画と彫 刻の両方で旺盛な制作活動を展開しましたが、とりわけ、《描画された詩》とでも形容すべき独特の絵画 作品は他の追随を許しません。アメリカ出身ですが 20 代の終わりにイタリアへ移住し、少しずつ大西洋 の両側で孤高のアーティストとして評価を高めて行きました。その世界的な評価は、高松宮殿下記念世 界文化賞(1996 年)、ヴェニス ビエンナーレ金獅子賞(2001 年)、レジオンドヌール シュヴァリエ勲章 (2010 年)などからもうかがえます。
美術館プレスリリースより


若い美術家のお友達から勧められたんです。日本ではすごく人気だったんですね。全く知らず。ごめんなさい。
でも、展示の作品みて、あ、見たことある・・・・って思う作品が。
ドリップペインティングのような作品とか、文字を中心にした作品、葉っぱのようなパターンとか・・・

たぶん、MOMAとかWhitneyで見たんでしょうかねぇ。。
とにかく、どんな風な作風と生き方だったのか、何年頃に活躍したのか、全く知らず、先月の芸術新潮に載っていたけど、敢えて予断を持たぬ様、白紙の状態で行きました。
暑い真夏の水曜の夜。

外は蒸し暑いけどキンキンに冷えた美術館の第一室にあった作品は部屋の暖炉?のような部分の模様と呼応し合うように感じたけど、untitledだからどれって言えないよね。

残念ながら、原美術館の天井はすごく高くはないし、部屋も小間切れになっていることもあり、第一室も圧迫感が少しあるのだけど、この部屋は、そういった感じ(呼応感)があって、展示が生きているという印象。

作品は、1950年代の方が好きかなぁー。
だって、子供が最初に描くような絵なんだもん。
いや、子供のように描けるって実は難しいと思うのよね、大人が描くと、どうしても見えるモノに対して「正確に」?捉えてしまう癖が抜けなくて、ヘタウマみたいになっちゃう。コドモらしい、意外な線というのが描けないのが普通、でも、この人の子供みたいな絵は本当に子供の線を再現している。

ただ、その後のどの作品もじっくり見ているとじわじわ訴えてくるものがある。。。フシギな感覚。

図録の最初の方のページにエルミタージュでの展示風景が載っていたけど、これがエルミタージュだったら、どう見えたのかと、頭の中で置き換え作業をするのは楽しかった。

8月29日には、東京で鑑賞した後に、貸切バスでアークに行って、トォンブリー×東洋の線と空間の鑑賞をするお得なツアーがあるけど、いけないのが残念だわー。




CY TWOMBLY-Fifty Years of Workd on Paper
サイ トォンブリー:紙の作品、50年の軌跡
2015年5月23日(土)~8月30日(日)
原美術館










2015年5月29日金曜日

【FB投稿 #美術館に行ったシリーズ】 運命の赤い糸?


あれ?投稿した筈がー。消えたのでもう一度!
信澤 宏至さんの投稿に煽られて、ダッシュで見に来ましたー。運命の赤い糸か、どうかは分からないけどなかなか面白く不思議な展示。建物の周りのスレッドとも共鳴しあう糸たちが壮観! 西洋版文楽のような映像展示は不思議だったー
#美術館に行った ギャラリーだけど

2015年5月6日水曜日

やっぱり抱一と守一が好き♪ーーーー琳派400年記念 京都 細美美術館 琳派のきらめきー宗達・光琳・抱一・雪佳ー @日本橋髙島屋

江戸時代に華やかに展開した琳派。王朝文化の復興をめざした裕福な町衆らによって創始され、時を経て隆盛し、大坂にも広がりをみせます。その後、花の都・江戸において装いを新たにし、さらに近代の京都で再興されました。400年の歴史を持つ琳派は、日常の中で追及された日本独自の美、そして日本人に寄り添った美として高い人気を博しています。
本展では、琳派を幅広く蒐集し、国内外から高く評価されている「細美コレクション」を通して、京都・大坂・江戸と3つの都で咲き誇った系譜を総覧。それぞれの特徴や魅力を、美術館開館以来はじめての規模で展覧いたします。また、今回出品される屏風や掛け軸などは細美家で実際に飾られたものもカス多く、個人コレクションならではの視点と美意識が光る琳派を紹介いたします。
日本が誇る美の世界「琳派」の優品の数々を、細美コレクションでどうぞお愉しみください。
展覧会ちらしより

今年は琳派400年ということであちらこちら、特に京都で、琳派関連の展覧会が多く開催され、観るほうも忙しい、忙しい。
つい先日(といっても、もう1月の事でしたな)、三越で岡田美術館の所蔵する「琳派名品展」があり、デパートで開催する展覧会とはいえ、もとの所蔵する美術館次第では十分に良い作品を見られるということを覚えた私、今回は混雑する前の午前中に出かけてきたわけです。
細美美術館の琳派作品は有名ですからね。(デモナカナカ機会ガナクテ行ケテナイ)

展覧会構成は以下の通り
第一章  琳派誕生ー光悦・宗達の美ー
第二章  花咲く琳派ー光琳・乾山と上方の絵師ー
第三章  新たなる展開ー抱一と江戸琳派ー
第四章  京琳派ルネサンスー神坂雪佳ー

第一章 琳派誕生ー光悦・宗達の美ー
琳派の誕生はいわば総合プロデューサー光悦が家康から鷹峰の土地を与えられて今でいうところのアーティスト村を作ったことから・・・とか言われていますが、どこが起点かという事はともかくとして、扇や料紙を扱ってた宗達と光悦が間違いなく時代を切り開いてますよねー。
だって↑の扇面《月梅下絵和歌書扇面》の画面を対角線に金泥、銀泥の二分割に分けるとか、そんなこと今は普通に見てるけど、この時代すごく斬新ですよね。
対角線という意味では、同じく宗達が描いている《伊勢物語図色紙「大淀」》も口説く男を女が拒絶する場面をうまく対角線の左上と右下に男女を配しその間に海山雲松で区切る。。二人の心の距離を巧く表現しています。
今根津でやっている光琳の《燕子花図屏風》ではパターンのように同じ型紙を使っているということが有名ですけど、実は光悦・宗達の作品にもパターンはみられますよね。《忍草下絵和歌巻断簡》の上部は金泥と銀泥の藤が描かれているけど、これって絶対型紙のようなものを使っていますよね。同じように光悦の《和歌短冊》の和歌の背景の草もパターンだし。ついでに隣にあった《前田宗悦宛書状》を貼った掛け軸の中廻し部分の右側の草の葉と全く同じ柄、思わずこれも光悦が描いた(描かせた?)のかな・・・と思ったりもし。。。

光悦の養子の嫡男だったという本阿弥光甫の《梅に鶯図》 抑えぎみなふくよかな線がよかったわー。。

第二章  花咲く琳派ー光琳・乾山と上方の絵師ー
冒頭登場の光琳の《宇治橋図団扇》
いかにもという絵柄と大胆な線ですねぇ
それに日して乾山の《唐子図筆筒》はらしくない・・・と思ったら、中国の赤絵写しだった、
今回は光琳・乾山の作品は少な目で、むしろ工房のお弟子さんたちや私淑した芳中の作品が多く並んでいるのがこの章の特徴。気にいったのは渡辺始興の《簾に秋月図》 簾のむこうに桔梗、ススキ,藤袴を配し、外隈の大きな月に照らされた一種エロい感じの絵なんですえ。あとね
《白象図屏風》、二曲一双の画面を斜めに白象を配したところが、なんかいいなーって。今サントリーでやっている若冲の象はなんとなくコミカルだけど、この人のは絶対観て描いたよね、と思う精緻さ。

芳中は六曲一双の《白梅小禽図屏風》が金箔地の上に大胆な筆で描かれていて細美の持つ代表作なんでしょうが、なんか、琳派っていってもずいぶんと光琳とは違った力強さみたいなものを感じて、個人的にはこれよりも抑えめの朝顔図だとかの方が気に入りました。

さて第三章は私の大好きな抱一の名前が冠されてます。いや、昔っから抱一のその育ちのよい品の良い作品群が好きで、弟子の其一さんは玉石混交でどうよっていう感じ、其一さんの息子の守一さんは好きだなぁという作品が多いんです。
今回もそれをまざまざと感じることになりました。
たまさか、細美家の現在の当主のお父様が琳派に傾倒・蒐集することになったのが抱一の美しい団扇《鹿楓図団扇》だそうで、そんなことからなのか、抱一作品は品の良いものばかり。とりわけ以前トーハクでの「大琳派展」でも拝見したと思う《桜に小禽図》と名付けられた(大琳派展では《桜に瑠璃地鳥》
であったみたいなので似た別ものかしら?)軸一幅とそのとなりの《雪中檜小禽図》が対をなすように並んでいたのだけど、ご当主も語っておられましたが、育ちの良さがにじみ出たような気品のある作品。桜のS字カーブも自然に一番美しい姿に描かれていて、やっぱり好きだーと改めて思ったりし。
ところで蒐集のきっかけとなったという団扇の鹿の姿はどことなく光悦・宗達の作品で宗達が描いた鹿に似ているんですよねー。いや鹿の振り向く角度とかを考えると全然違うんだけど、印象が似ている。






玉石混交と書いたけど、こちらがお持ちの其一作品は、比較的抑えめでまぁまぁ好みのものが多うございましたが、やはり息子の守一の作品の方が記憶に残りました。《楓桜紅葉図》は中廻しの上下に桜の木を配し、地面には桜の花びらが散り、タンポポが咲いている様、上は桜満開、左右には燕子花やらそのほかの季節の花を配しているんですね、オサレ。。。しかも表装の中廻しの絵も手描き。
同じように手描きの表装(描表装)の《桜下花雛図》《業平東下り図》などうっとりするくらい素敵。

あと、名前はないのだけど《四季草花虫図屏風》(六曲一双)がよかったなー。右隻は金箔地に春夏を、左隻は銀地に秋冬の草花と虫を描いた屏風で、左隻は季節こそ違いけれ、これまたトーハクの「大琳派展」でみた光琳の風神雷神図屏風の裏側に描かれていたという抱一の《夏秋草図屏風》を彷彿とさせるタッチのような気がしたんですよねー。

最後の章は神坂雪佳。

岡田美術館の時は加山又造に至るまでの流れだったけど、こちらは神坂雪佳まで。でも雪佳は充実。なんといっても、中廻りに葦簀まで描いてしまった《金魚玉図》の秀逸さには脱帽でした。

比較的開催が短い期間なのでお早めに。

琳派400年記念
京都・細美美術館
琳派のきらめき
ー宗達・光琳・抱一・雪佳ー
2015年4月29日(水)~5月11日(月)
日本橋髙島屋8階ホール





2015年3月21日土曜日

金儲けは悪いことではないと思うの。文化を育てるのに使ってくれるなら・・・ボッティチェリとルネッサンス@Bunkamura ザ・ミュージアム

ずいぶん前に青い日記帳のTAKさんのつぶやきで、なんでも前売り券にチケットホルダー付きの種類があるという事を見た私は、それをゲットするためにローチケで前売りを買っておいたんですね、いつもBunkamuraは現地で買う以外はネットで予約してファミマのちょっとめんどい前売り券売機にアクセスしなきゃならなかったので、気楽に買えたのがGJでしたんで。。
今回は初日の夕方突撃しました。人の入りはそこそこ。入場したらまずはチケットホルダー交換券をギフトショップで渡して、ニッコリ

 
それはさておき、今回もHPの解説と見どころを復習しながら感想を。(図版はHPより)
15世紀、花の都フィレンツェでは、銀行家でもあったメディチ家の支援を受け、芸術家たちが数々の傑作を生み出しました。ルネサンス期の芸術の誕生には、地中海貿易と金融業によって財を成したフィレンツェおよびメディチ家の資金力が不可欠でした。メディチ家の寵愛を受けたボッティチェリ(1445-1510)に代表されるフィレンツェ・ルネサンスは、フィレンツェ金融業の繁栄が生み出した代表的な文化遺産といえましょう。
 本展では、ヨーロッパ全土の貿易とビジネスを支配し、ルネサンスの原動力となった銀行・金融業と、近代のメセナ活動の誕生を、ボッティチェリの名品の数々を中心に、ルネサンス期を代表する芸術家たちによる絵画・彫刻・版画や、時代背景を物語る書籍・資料など約80点によって、浮き彫りにします。
【美術館HPより】

序章 富の源泉:フィオリーノ金貨


≪フィオリーノ金貨≫ 1252-1303年 金、直径2cm、グラッシーナ(フィレンツェ)、アルベルト・ブルスキ・コレクション、Grassina(Florence), Collezione Alberto Bruschi

表にフィレンツェの百合の紋章、裏に守護聖人洗礼者聖ヨハネを刻印したフィオリーノ金貨は1252年に初めて鋳造され、中世から初期ルネサンス時代にかけて国際通貨となります。町の名にちなんで名づけられたこの金貨がフィレンツェをヨーロッパ経済の中心へと押し上げ、ひいてはルネサンスの繁栄を生み出したのです


いや、こうやって公式HPの写真なんかを拝見しますとかなり精巧にできているということがわかるんですが、何せ13世紀とか14世紀、鋳造技術といっても今ほど精巧ではない頃の加工しやすいとはいえ24金のこういった美しいコインを東京で見られる訳ですから、ありがたや。なんでも、ちゃんとした出来かどうかを歯で噛んで確認したとか。
なるほど、少しひしゃげているのは、そのせい?かしらん。
それは兎も角、何故このプロローグが登場するかといえば、ヴァチカンがさほど遠くないフィレンツェでは、キリスト教の教義に反する・・とまでは行かないまでも、眉を顰められるような銀行業等の金融業が発達し、この金貨が国際通貨となる事でメディチ家のように絵画・芸術を庇護してくれる銀行家がより富を得るのであるという証左である事を後の章でしみじみと感じさせられる訳なんですよね。

 

ところで、ボッティチェリ。本当の名前(アレッサンドロ・フィリペーピ)ではなく、お兄さんにつけられた「小さな樽」という綽名から由来したとか、ずんぐりした人だったんでしょうが、なぜ兄のあだ名が弟に?1445年に皮なめし職人の息子としてフィレンツェに生まれ、1464~67年までフィリポ・リッピの工房で修行、ヴェロキオの工房に出入り後1472年に公的(商業裁判所)仕事を手がけ、1472年には画家組合に親方として加わったそうです。確か、ラファエロだったかしらね、同じように二十代の若さで親方というステータスになったのは。同じように早くから頭角を現していたということですね。
その後のメディチ家の庇護のもとの活躍や、メディチ家没落後の修道士サヴォナローラの禁欲的考えへの傾倒による神秘主義的な傾向とその失脚に伴って注文もなくなり、ひっそりと亡くなった人生については、昨年秋の「ウフィツィ美術館展」@東京都美術館 でもずいぶんと学んだ気が。
それはともかく、金貨に続いて、第一章が始まります。

第1章 ボッティチェリの時代のフィレンツェ
ボッティチェリの《ケルビムを伴う聖母子》の額縁に貨幣の鋳造や銀行業、商人の活動を監督した両替商組合の象徴である金貨があしらわれているように、彼の時代のフィレンツェでは芸術と金融、商業活動は密に関わっていました。ここでは絵画だけでなく、当時の経済活動をうかがわせる資料や商人の仕事道具を紹介します。
サンドロ・ボッティチェリ《ケルビムを伴う聖母子) 
1470年頃、テンペラ・板、120×66cm
フィレンツェ、ウフィツィ美術館
© Gabinetto Fotografico della S.S.P.S.A.E e per il Polo Museale della città di Firenze
 
ケルビムとは位の高い天使のこと。額縁に貨幣の鋳造や銀行業、商人の活動を監督した両替商組合の象徴である金貨があしらわれています。
 
 
さて、この章には早速、プロローグのあった意味を思い起こさせられます。

そう、ボッティチェリ《ケルビムを伴う聖母子》の額縁部分に奥行を持たせる層があって、その赤地の層には柄こそ描いてないですが、金色のコイン状の○が三列装飾として並べられているんですね。これが両替商組合の発注ではないかと思われている理由だそうですが、単なる柄。。。とも見えなくはないですけどね。。。きっと決定的な何か(注文書とか、管理番号とかの記録?)があるのではないかと思われます。
。。にしてもキリストの胸のあたりの花のようなヴェール状の羽織ものは繊細で美しいのに、何故顔は大人顔で怖いんだろう。。ま、他の人のも含めてたいていはそうですけどね。


マリヌス・ファン・レイメルスヴァーレに基づく模写 《高利貸し》
1540年頃、油彩・板、100×76cm
フィレンツェ、スティッベルト博物館
© Archivio fotografico Museo Stibbert, Firenze

15世紀のキリスト教世界では、富を循環させる銀行業は金利で儲ける高利貸しと明確に区別され、近代金融業の礎となりました。フランドルでは、この図像が人気を博し、多くのバりエーションが制作されました。
 
 
 
 
多くのバリエーション。。えぇえぇ、確かにこの手の構図の《両替商とその妻》の絵が国立新美術館でやっている『ルーブル美術館展―日常を描く―風俗画に見るヨーロッパ絵画の真髄』にもありましたよねぇ。皆、いかにもカネカネカネ・・という表情でアクドイ感じに描かれるという気の毒なパターンは、職業の貴賤(銀行業は経済を循環させるから良いが、高利貸しは金利をとりたてるから悪)に関してのキリスト教的道徳観(金利を取るのは悪)を広める役割を果たしていたのでしょうが、それにしても、悪どそうな顔!

でも、お金を持っている彼らにしてみれば、その富を象徴する毛皮のガウンを着て、宝飾品を身に着けていたわけですから、世間の風評なんのそのだったのかもしれませんがね。
ちょっと面白かったのは商業活動とメディチ家の紋章というタイトルではあるものの、算術と幾何の問題集があって 1000引く650は350、更にそこから100を引くと250なんていう縦書きの計算式が描いてある本があったことかな
 
次に、第二章の華とも言える、フランチェスコ・ボッティチーニの旅するトビウスと大天使ラファエルの絵が続きます。

 


 


 
 

第2章 旅と交易:拡大する世界

ヨーロッパ各地にフィレンツェの銀行の支店が開設され、旅行者や商人は現金に代わり信用状を携行して長旅に出られるようになります。交易は活発化し、フィレンツェにはヨーロッパだけでなく遠く中東からの商品も行き交いました。ここでは、航海図や、旅の道具、商品を輸送する船旅の様子を伝える絵画などを紹介します。

フランチェスコ・ボッティチーニ 《大天使ラファエルとトビアス》
1485年頃、テンペラ・板、156×89cm
フィレンツェ文化財特別監督局 

©Gabinetto Fotografico della S.S.P.S.A.E e per il Polo Museale della città di Firenze
病に伏せる父親が、貸したお金の回収のため息子トビアスを旅に出します。その無事を祈る両親の願いを聞き入れ、大天使ラファエルが旅に同行したという旧約聖書外典『トビト記』の物語。交易の拡大で、旅に出る機会が多くなったこの時代に好まれて描かれました。
トビアスは籠に入った魚を持っていますが、これは旅の途中でラファエルの導きによって夕暮れのティグリス河で大きな魚を獲り、その胆嚢で父の病を治すシンボルですね。その他にも牧羊犬とか石ころがごろごろ転がる山の道が描かれていて、この時代十代前半で危険を伴う長旅に出る少年達の艱難を想って注文されたと思うとこの時代の商家の家族のあり方を想像してしまいますよね。
 
今回の目玉のフレスコ画のとは異なる油彩の《受胎告知》が隣に掛かっていたのですが、その背景にも何気にトビアスと大天使ラファエロが遠くの道からこちら側に向かってくるとの構図で描かれていました。今まで気にしなかったけど、この時代の絵画を見るときに背景にこのモチーフが描かれていたら、注文主が旅立たせた息子の安否を気遣って描かせたのかな?と想像できるということですね。鑑賞する楽しみが増えましたね。
ところで、こちらの《受胎告知》、19世紀のラファエル前派の初期パトロンのウィリアム・グラハムから、エドワード・バーン・ジョーンズに贈呈されたという解説が入ってました。今は個人蔵となっているわけですが、バーン・ジョーンズの子孫なのかなぁ。。まぁ、ちょっとマリア様の表情はお疲れ気味のような絵ですが、いずれにしてもバーン・ジョーンズが同じ絵を眺めていたこともあるのねー、と思うと不思議な感覚になりますよね。

第3章 富めるフィレンツェ

13世紀以降、ヨーロッパではたびたび奢侈しゃし禁止令という贅沢を戒める条例が発せられます。
衣類や宝飾品のみならず、饗宴や婚礼、葬儀での節制を求める条例でした。金融、商業で富めるフィレンツェでも例外ではありませんでした。この章では、禁止の対象となった壮麗な婚礼や葬儀の様子を表した作品を展示します。
フラ・アンジェリコ 《聖母マリアの結婚》
1432-1435年、テンペラ・板、19×51.5cm、フィレンツェ、サン・マルコ博物館
©Gabinetto Fotografico della S.S.P.S.A.E e per il Polo Museale della città di Firenze
フラ・アンジェリコの代表作《聖母戴冠》(ウフィツィ美術館)のプレデッラ(祭壇画下部の小壁板絵)のひとつ。

この章は水浴を覗き見した長老たちに脅されて死罪になりかかるスザンナのお話を絵にした《スザンナの物語》等結婚祝いに使われたと思しき壁掛け鏡とかの展示。   
出産盆はこの時代の出産が大変な労苦であり、その苦労を乗り越えた産後の女性に対する周りの思いやりが感じられますねえ。

第4章 フィレンツェにおける愛と結婚

フィレンツェの商人や銀行家の寝室は、結婚生活・出産・死が展開されるプライベートな空間でした。寝室の調度のうちカッソーネ(長持)と呼ばれる婚礼家具や宗教画、出産盆(出産祝いを載せる盆)には、夫婦の社会的役割を示す図像が選ばれ、フィレンツェ・ルネサンスの社会が依って立つ価値観や美徳を伝えてくれます。
スケッジャ《スザンナの物語》
1450年頃、テンペラ・板、41×127.5cm、フィレンツェ、ダヴァンツァーティ宮殿博物館
©Gabinetto Fotografico della S.S.P.S.A.E e per il Polo Museale della città di Firenze
旧約聖書外典で語られる敬虔で貞淑な妻スザンナの物語が、美徳を代表するものとして婚礼家具に描かれました。背景には当時の邸宅の様子が描かれています

 

第5章 銀行家と芸術家

ルネサンス期のフィレンツェの名作の数々はメディチ家をはじめとする銀行家一族の注文によって制作されました。メディチ家から絶大な信頼を得ていたボッティチェリは、彼らの要望を満たす作品を生み出す理想的な画家でした。この章では、銀行家による注文作品とともに彼らの豪華な生活を偲ばせる品々を紹介します。

ウフィッツィから来た《開廊の聖母》は優美な作品。この写真では額の頭頂部(チマーザ)に鳩が描かれているなんてわからないけど、正面から羽根を広げて、この絵を包んでいる感じでありまして、美しいとの印象でした。
ワシントン・ナショナルギャラリーの《聖母子と二人の天使は》 ボッティチェリ帰属とあるので、真贋はわからないわけですが、その聖母の赤い宝飾品で留めたマントのような衣がその気品の高さと相まって美しい作品です。天使も赤っぽいガウン着ちゃって黒っぽい羽根なのが気になりましたが。


さて目玉の《受胎告知》のフレスコ。 大天使ガブリエルが空から飛んできたように左空中に浮遊して、マリアが右でははーっといわんばかりにひれ伏そうとしている。同じ横に長く展開しているダヴィンチのもう既に貫禄があるマリアに向かい片膝落として告知するガブリエルという構図の《受胎告知》に比べて、ガブリエル――神の使い、マリア――聖母になる前の人間といった印象が強いのは、天使と聖母の距離が結構離れているからそういう印象になるのかなぁ。。でもこの構図、個人的には好きだなぁ。
HPの担当学芸員さんの解説を読むと、やっぱり、ガブリエルに主役の座を敢えて渡しているようですね。。ふんふん。意図通りの印象を持ってしまったわけで、ボッティチェリにやられたわけですね。



 サンドロ・ボッティチェリ《受胎告知》
1481年、フレスコ、243×555cm フィレンツェ、ウフィツィ美術館
©Gabinetto Fotografico della S.S.P.S.A.E e per il Polo Museale della città di Firenze


サンドロ・ボッティチェリ 《聖母子と洗礼者聖ヨハネ》
1477-1480年頃、テンペラ・板、直径96.5cm
ピアチェンツァ市立博物館
©Musei civici di Palazzo Farnese - foto Carlo Pagani

*3月21日―5月6日の期間限定出品
その脇に、今回期間限定で公開のテンペラ画《聖母子と洗礼者聖ヨハネ》の丸い板がかかっています。
確かキリストは厩の飼葉桶に寝かされたと聖書の記述とは違い、身体を包んだ布の下には括った柴のように堅そうに積んだ薔薇の上に寝かされています。バラ⇒棘のインスピレーションで、これから起きる苦難の道―茨の道というボッティチェリのアレンジでしょうかねぇ。この絵は 背景にも薔薇というより椿にも見えてしまう生垣が描かれ外界との遮断をしているようでまるで窓のある回廊のように薔薇の生垣を置いている構図はインパクトがありますね。美しい絵画でした。


絵画作品ではないけど、途中のケースに《三声と四声のための歌曲集》がありましたが、とても美しい本です。


この章の最後に、ウフィツィにある名作《ヴィーナスの誕生》の貝の上に立っているヴィーナスの下絵のようなのがありました。黒地の背景にヴィーナスだけなので、ホンモノよりも裸体が強調されたような印象になります。解説には《ヴィーナスの誕生》は(後にボッティチェリが傾倒することになる「正統な信仰」を説く修道士サヴォナローラから見れば享楽的な社会を体現するようなとんでもない絵となるわけですが、そのような悦楽的な絵画や文化を庇護してきたロレンツォ・メディチのような金持ちがいてこその華やかな文化の発展でもあったわけで、もし「正統な信仰」だけの世界なら、今でも西洋文化は受胎告知と聖母子だらけに囲まれていた事になり、それはツマラナイナ。。。ま、そんなことなくてよかった訳です。この展覧会の副題が「フィレンツェの富と美―Money and Beauty」となっている事を改めて思い出させてもらえる作品でした。
 

第6章 メディチ家の凋落とボッティチェリの変容


修道女プラウティッラ・ネッリ(帰属) 《聖人としてのジロラモ・サヴォナローラ》
1550年頃、油彩・キャンヴァス、61×45.7cm、個人蔵
メディチ銀行の衰退とともにフィレンツェは危機の時代を迎えます。この頃、台頭した修道士サヴォナローラが行った「虚栄の焼却」では贅沢品や宗教上好ましくない芸術作品が燃やされます。ボッティチェリの晩年の作品はそうした時代の空気を反映しています


そのメディチ家が没落し、「虚栄の焼却」を目指したサヴォナローラもいずれ処刑されてしまうという歴史を見れば、一度林檎をかじってしまったアダムとイブの子孫が「正統な信仰」を保ち続けることができず、美しいものを求め続ける事はそれが堕落であったとしても運命なんだなぁーと思わざるを得ない事をこの章で学ぶわけですねー。いや、しかし、このサヴォナローラはきっと本人に似てるんだろうけど、この鷲鼻の横顔からは、一切の奢侈は認めないぞ!的な強い意志と、融通なんて言う言葉は彼の辞書になさそうだなぁと思わされるのはなんでなんでしょうかねー。。
 
 
ボッティチェリとルネッサンス
フィレンツェの富と美
 
Bunkamuraザ・ミュージアム
2015/3/21(土・祝)-6/28(日) 
*4/13(月)、4/20(月)のみ休館
 


2015年3月19日木曜日

没後50年ーー小杉放菴ー〈東洋〉への愛ー展@出光美術館 放菴はおおらかで巧いなー


i会期も中盤に入ってきたので、慌てていってきましたー。美術館のHPの解説(斜め灰色文字)を参照しながら、感想文をば・・・
 
放菴作品の展示は、当館では2009年2月に開催した「放菴と大観-響きあう技とこころ-」展以降、6年ぶりの公開となります。とくに今回は、東京国立近代美術館、小杉放菴記念日光美術館、栃木県立美術館、泉屋博古館分館ほかのご協力によって、放菴作品の代表作が集います。約90件の作品で放菴の魅力に迫る展覧会。この機会をどうぞお見逃しなく。
展覧会の構成
  1. 第1章
  2. 第2章
  3. 第3章
  4. 第4章
  5. 第5章
  6. 第6章
  7. 第7章
  8. 第8章
  9. 第9章
各章の解説
第1章
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放庵画冊より 明治時代 小杉放菴 出光美術館蔵
小杉放菴(こすぎほうあん 1881~1964)は、明治14年(1881)に日光二荒山(ふたらさん)神社の神官・富三郎(蘇翁)の末息子として生まれます。国学者で文化人であった父に従って、15歳で日光在住の洋画家・五百城文哉(いおきぶんさい)の内弟子となります。高橋由一(たかはしゆいち)の門人で実力者だった文哉に可愛がられてデッサンを学びますが、青雲の志を抑えきれなくなり、18歳で上京、小山正太郎の画塾・不同舎に入ります。勇壮な外貌と、〈未醒(みせい)〉と号するほどの酒好きで元気者の放菴。小山に見込まれて、日露戦争では国木田独歩(くにきだどっぽ)の『戦事画報』(旧『近事画報』)の従軍記者として戦地へ赴き、挿絵で悲惨さを訴えました。洋画家の美術団体である太平洋画会に出品する傍ら、田端の自宅近くに倶楽部を創り、画家仲間とテニスを楽しむうちに、その仲間たちとの間で美術同人誌も生まれました。同人誌に寄せた漫画には、現実社会を直視する繊細な優しさが溢れています。田端に住んだ芥川龍之介も、外貌と内面の差が激しい放菴を、愛おしそうに“未醒蛮民(ばんみん)”と呼びました。
先ず入って最初の章のタイトルに「蛮民」とあるので、野蛮な民って言われいてたの?と一瞬戸惑い、更に、宮司の子供であるからには野蛮からは程遠いだろうーと読み進んでみたら、なるほど愛おしさによる命名だったのですねー、しかも芥川龍之介による命名かぁー。。
それはともかく・・・
敬愛していたという高橋由一を師にもつ五百城文哉と放菴の《日光東照宮》の絵が並ぶ最初のケース。
放菴のそれには、師である文哉の画風をひたすら模倣しているといいつつも、師よりコントラストが強調され白馬会系の影響がある早熟な手の跡・・というような解説がついています。確かにフォンタネージの影響を受けたという大きくて堂々とした師の絵に比べると号数の小さい絵ながら、遠景の木々を薄紫にして朝もやに煙るような森閑とした空気を出している放菴の方が迫力がありますねぇ。また、確かに黒田清輝に代表される白馬会の画風を取り込んでいるといわれればそうなんですけど、私はむしろ、後に影響を受けるというシャバンヌと似た空気を感じましたねぇ・。。
自画像に続いて次のケースに飾られている《婦人立像》、全体的なイメージはちょっとナビ派のような印象。


第2章
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水郷 小杉放菴 明治44年(1911) 東京国立近代美術館蔵
明治40年(1907)から文部省主催の美術展覧会・文展が開催されるようになると、放菴は徐々に頭角を表し、30歳頃には「水郷」と「豆の秋」と二年連続で最高賞の二等賞を受賞します。洋画界の将来を嘱望された放菴は、翌年の大正2年(1913)には銀行家・渡辺六郎の後援を得て渡欧し、当時世界的に流行したフランスの壁画家ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(1828~98)に憧れて、パリを拠点に半年間、ヨーロッパ各地の壁画や美術館を見てまわります。しかし、ヨーロッパの伝統の重みに圧しつぶされそうになり、パリで江戸時代の文人画家・池大雅(いけのたいが 1723~76)の画帖「十便帖」の複製に“帰り行くべき道”を示されて、帰国後は日本画に傾倒してゆくことになります。ここでは、文展入賞、留学中、帰国後の油彩画に、隈取や筆触といった日本画特有の味わいが表れてくる過程を追います。
《水郷》は二等賞という事ですが、旨いけど、題材のせいか楽しくないかも。でも洋行中の《スペイングラナダ娘》は、マティスの影響受けてるなー、と思ったりできるのが楽しい絵です。構図はシャヴァンヌだというのだけど。。そうなのかー。。
この留学中と帰国後の大正時代は色々な事に挑戦している感じ。《初夏山雨》なぞ、なんかエッチングでみられるような細かい点と奥行のあるふしーぎな画面で目を引き付けられます。解説によれば東洋画で常套的に使われる済による黒い点で苔を表すだけではなく、白い点を加えることで雨に濡れた輝く山を表現できているとの事だけど、何しろえぐるような線なぞは当時にしてはアヴァンギャルドだったのではないかと思うのです。


第3章
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湧水(いずみ) 小杉放菴 大正14年(1925) 出光美術館蔵
東洋色が濃くなって帰国した放菴を支えたのは横山大観(よこやまたいかん)でした。大観は大正2年(1913)、岡倉天心(おかくらてんしん)亡き後の日本美術院に、放菴を洋画部門のリーダーとして迎えて再興し、二人は意気投合して国際社会に恥じない新しい絵画を創り出そうと情熱を傾けます。大正9年(1920)に、院から洋画同人たちと共に脱退すると、洋画家たちと創設した春陽会に加わり、水墨の素描や東洋趣味の洋画を出品して注目を浴びました。そして、大正末期には壁画の依頼にも意欲的に応え、洋画家としての地位が不動のものになりました。東京大学大講堂(通称安田講堂)の舞台を飾る壁画では、ソルボンヌ大学大講堂のシャヴァンヌの壁画を念頭におきながら、裸体のミューズたちを天平風俗の乙女に変え、東洋的な情緒を湛えた作風へと昇華させています。日本画を思わせる色彩や筆触が、油彩画に淡白な柔らかさを与え、東西や時代を超えた神話世界へと誘います。
実際の安田講堂の壁画は持ってくることができないので、下絵が展示されているわけですが、シャヴァンヌを意識した人の動きとか構図なんだそうです。でも日本的というのかふくよかな東洋的な人たちが並んでいる壁画写真や《湧水(いずみ)》を見ると、よく咀嚼しているという印象を受けます。つまり自分の画風としているような感じ。
第4章
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瀟湘夜雨 小杉放菴 昭和時代 出光美術館蔵
池大雅の「十便帖」の複製に、放菴は思いがけず墨線の力を見出します。放菴の留学した1913年の西欧においては、ピカソやマティス、カンディンスキーなどが絵画のリアリズムを否定し、新たな空間原理を創り出そうとしていました。しかし、画面上に空間を自由自在に作り出す大雅の線は、こうした西洋の動向に先駆けた新しい線と感じられたのです。

「大雅堂の絵は、さながらの音楽、最も自然を得て、最も装飾的、暖かく賑やかに、しかしながら静かなる世界、其の基調は一に彼の太く緩く引かれたる線條に在る。」〔小杉放菴「線」、大正14年(1925)〕

帰国後の十年間、大雅研究に熱をあげる一方、中国旅行をし、宋元画など中国の古画学習にも没頭してゆきました。ここでは、江戸時代の文人画と放菴の南画の競演により、放菴が憧れた文人世界を検証します。
この章に入ると、池大雅と放菴の同じ画題《洞庭湖秋月》とか《瀟湘夜雨》を隣り合わせて展示。浦上玉堂と同じ画題もあり。そうやってみると、先人にかなり軍配があがってしまうと見えるのは私の偏見かなぁ。。放菴の《瀟湘夜雨》は、大雅にひけをとらないし、比較画題のなかった《渓雲》は良いと思ったわけですが。
《大雅堂瀟湘八景扇面小皿》は元絵が池大雅、染付が放菴、窯は板谷波山というゴージャスな組み合わせ、光悦・宗達や尾形兄弟のコラボを想起させる組み合わせですね。
第5章
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帰院 小杉放菴 大正15年(1926) 出光美術館蔵
大正期には、大観らの影響もあり、日本画の画材に関心が高まります。洋画の主題を屏風、金箔地、絵巻に、南画の主題を油彩画へと、様々な媒体に試して好評を得ました。さらに大正末期に、福井の紙漉き職人・岩野平三郎が、平安時代に姿を消した麻紙(まし)の復元に成功すると、放菴は一種変わった墨の風合いをみせる麻紙の虜になりました。そして昭和4年(1929)の中国旅行の時、その餞別として洋画家の倉田白羊(放居士 ほうこじ)から画号の一字を奪い取って、〈放菴〉と改号します。

「人或いはこれを転向という。自分はずっと続いた一本道だと思う」〔小杉放菴 「半世紀以上」、昭和35年(1960)〕

世間から“転向”、あるいは“東洋回帰”と見られ、放菴の描く南画は、構図が勝ちすぎていて、文人の精神性がないという批判もありました。しかし、放菴は、自らの漢学の教養をおしつける南画ではなく、文人の楽しみを鑑賞者と共有することを第一とし、筆の修練を重ねて、洋画と日本画に新しい風を送り続けようとしたのです。
麻紙に拘る放菴という説明を見て、そういえば、竹内栖鳳も同じ岩野平三郎さんのところで「栖鳳紙」と言われる紙を作らせてたんじゃなかったっけ?と思い至り。。。確か横山大観も同じ紙職人さんを使っていた。。
放菴が出来上がってくる麻紙を使う度に色々コメントして100通程手紙を送り、それに応えたとの解説を読んで、いやいや、放菴ばかりではなく、後世に名前を残す大画家たちの細かいリクエストに応えていた岩野平三郎さん、凄い!っと、そっちに頭がいってしまいましたよ。ほんと。
この章の最初の絵は《ブルターニュ風景》等のシャヴァンヌの影響大と一見してわかるような絵が並んでますが、その中でも《黄初平》という絵が気に入っちゃいました。背景に金箔を使い、道化のように踊るような人物のイメージは西洋風でもあり、画題でもある黄初平の逸話(失踪していた羊飼いが仙人になり石を鞭打つと羊に変身する・・・ってなかなかの話ですが。)は中国のもの、と西洋、東洋入り乱れているものの、そこでうまーくバランスのとれた不思議な絵の魅力。
《帰院》《釣秋》といった絵も構図や金泥使いが素晴らしくて良いなー。
《新緑写意》の解説ではマティスのフォーブ時代の絵に似ているとか書いてあったけど、それには疑問符ありですが。。笑
第6章
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春風有詩 昭和3年(1928) 小杉放菴記念日光美術館蔵
昭和に入って放菴の主要なテーマとなったのが、東洋の神話や古典の世界です。幼少の頃から父・蘇翁や師・文哉に従って漢詩の素読を習ったことの上に、漢学の碩学・公田連太郎(きみだれんたろう)との出会いが、放菴の思想をますます東洋に傾かせることになりました。放菴は、昭和2年(1927)から田端の自宅で友人を集めて、毎週、公田から漢学の講義を聴く「老荘会」を主催します。中国古典の思想は放菴の生き方にも多大な影響を与え、昭和9年(1934)から信州・妙高高原の別荘で、自然の風物に囲まれながら作画する生活を楽しむようになりました。放菴の描く荘子や李白は、別荘前に据えられた“高石”の上で妙高山を眺めて暮らす放菴の分身であり、明るく大地を踏みならす神々は放菴が遊んだ日光の大自然の象徴なのです。現実と離れて遊んでいたいと願った放菴の心が伝わってきます。
確か以前も見たような気がする《酔李白》とか《荘子》も衣の白とそれ以外の抑えた色との対比も含めて、なんというのか、泰然自若の高士の姿を良く表していていいなーとおもいましたよ。解説では放菴自身だというのだけど。
更には《さんたくろうす》、西洋の屋根と松林の中にいるサンタがミスマッチ感なく同居する姿は彼の絵の特徴かもしれませんね。
このコーナーの最後には前回は第一室の一段下がったところに掛かっていた(と記憶)笠木シヅ子がモデルという《天のうづめの命》もかかっています。この絵はポスターやチケットの絵柄にもなっていますよね。
前回の展覧会の時には目に留まっても気にならなかった解説はこの絵が日章丸二世の為に描かれ、船長室に掛かっていたと言う事。出光佐三を描いた『海賊と呼ばれた男』の影響で今回はすっかりあまたに入りました。
《洞裡長春》に出てくる梅の香にうっとりする唐子といいふくよかで、優しさを感じる人物の描き方は抜群ですねぇ。。
第7章
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金太郎遊行 小杉放菴 昭和17年(1942) 泉屋博古館分館蔵
放菴の長い画業人生の中で、人と寄り添う牛はとりわけ好んで描かれたモチーフです。放菴が初めて描いた南画の画帖「南嶋帖(なんとうじょう)」にも、沖縄で牛の手綱を曳く牧童が繰り返し登場しますが、その構図は後年、禅の悟りの段階を説いた中国の伝統的な画題「十牛図(じゅうぎゅうず)」を思わせる画へと展開してゆきます。放菴の眼には、素朴な牛と牧童の日常風景が、「十牛図」や「出関老子(しゅっかんろうし)」といった中国古典文学のテーマと重なって映っていたようです。放菴が孫をモデルに描いた、悠々と熊に跨った金太郎の勇姿も、超然と牛の背に載った老子の分身といえましょう。ここでは、「十牛図」をテーマに、融通無碍に姿を変える物語世界をご紹介いたします。
放菴は金時を随分描いているけれど、本来雷神の子という位置づけで赤い身体を描くのが習わしだったところ、肌色に書いているのはお孫さんを模して書いているからと。放菴という人の人柄も伝わってくるようで、微笑ましい。


第8章
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山水八種 小杉放菴 昭和8年(1933) 出光美術館蔵 〈場面替あり〉
放菴と出光美術館初代館長・出光佐三との出会いは、『景勝の九州』(昭和5年(1927)刊)という一冊の本がきっかけでした。『景勝の九州』は、放菴が九州電力の招待で九州をまわったときのスケッチ画冊「鎮西画冊(ちんぜいがさつ)」をまとめた旅行記ですが、佐三はその挿絵を見ているうちに、自分が惚れ込んだ博多の禅僧・仙厓(せんがい)と相通じるものがあると直感したのです。二人は画家の岸浪百草居(きしなみひゃくそうきょ)の紹介で会った途端に共鳴しました。この頃の放菴は、中国明末の文人・石濤(せきとう)の画冊「黄山八勝画冊」の色彩の美しさに感銘を受け、画冊の制作に精力を注いでいました。青年洋画家たちの間で、写実を突きつめて絵の具を塗り重ねた風景画が流行することを憂慮し、明るく美しい日本の風土を描きたいと願ったからでした。放菴の日本の風土を愛する純粋な心が、佐三には仙厓の無垢な境地に重なって見えたのかもしれません。
もっとみどころ
わかりやすく実感、放菴の画業
近年、日本近代画壇の中で重要な人物として、密かに脚光を浴びている小杉放菴。しかし放菴の名は、いまだ一般の美術ファンにまでは浸透していません。実は、当館の初代館長・出光佐三は、彼の有力な庇護者でした。プライベートな交流からはじまった放菴作品の収集は、約300件に及び、出光コレクションの一つの柱となりました。出光美術館だからこそできる、本格的な展示。この会場を一望すれば、放菴の画業が、さらりと実感できます。
http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/exhibition/present/images/highligh_ph009.jpg金時遊行 小杉放菴 昭和時代 出光美術館蔵
第9章
妙高高原に別荘・安明荘(あんめいそう)を建てると、放菴は花鳥画に興味を持ち出します。鳥屋から鳥を買ったり、白かん鳥(はっかんちょう)を飼うための小屋を造ったり、川治温泉の鳥屋に一週間ほど籠もってスケッチをするなど、昭和10年(1935)頃から花鳥の写生の手控えが見られるようになります。戦争で田端の画室が焼かれて東京を離れると、安明荘で花と鳥に囲まれた世界に没入します。

「春光秋色自然の風物は人を慰める、又自然の風物を調理した芸術は人を慰める、この慰安芸術は、事実から遊離した境地のものでありたい、」 〔小杉放菴「兼山の縄」、昭和22年(1947)〕

愛国心の強かった放菴は、戦後の荒廃の中に於いて、絵の効用の一つは人々の心の休息や安らぎにあると考えていました。麻紙の繊維が醸し出す墨のぬくもりと絢爛な色彩のハーモニー。時間を忘れてたたずんでしまうような浄土世界は、放菴芸術の極みといえましょう。
http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/exhibition/present/images/highligh_ph010.jpg梅花小禽 小杉放菴 昭和時代 出光美術館蔵 〈2月21日~3月15日展示〉
サイトにあった写真は前期のもので、これも素晴らしい構図だけど、後期の同じ《梅花小禽》とのタイトルのあった二曲一隻の屏風もこれまた素晴らしい構図、大胆な構図は天性の巧さをつくづく感じさせられます。
いやー、楽しかった。
 

小杉放菴
没後50年ー〈東洋〉への愛
2015年2月21日~3月29日
出光美術館