2013年6月26日水曜日

【終了後感想文】やきものに親しむⅩー日本人の愛した〈青〉の茶陶  古染付と祥瑞 @出光美術館

明日からなんちゃって外交なんで、行けるとしたらもう今日しかない!っちゅう事で、もう一度じっくり見てから書きたい三菱一号館の「浮世絵フローティングワールド」の内覧会レポ書きの時間を削って雨のそぼ降る昼休み、出光美術館に伺ってきましたー。
雨が降った平日の昼だけど、そこそこの賑わいです。人気高いですよねー。ここ。

展示は出光美術館が数多く所蔵している古染付から紹介がはじまります。展示品の解説ラベルには可愛い絵柄ーーこれは展示されている《古染付周茂叔文皿》の部分ですが、中国では有能な官僚として上り詰めた北宋の周頓頤(しゅうとんい)、通称は周茂叔のように、キッパリ引退したらこのように毎日釣り糸を垂れる生活をして過ごしたいという文人のあこがれとして彼の名前はこの蓮と釣り糸をたれるややとぼけた顔の老人の絵柄に象徴されているそうなんですね。
この右端にいる釣り糸をたれた周さんの絵が解説の紙一枚一枚に印刷されていました。色は青ね。

このお皿の口縁には「虫喰い」があって、それを取り込んで蓮の葉の虫喰いも表現しているんだ、と解釈するその「こころ」はいかにも日本の茶人の好むところだったんでしょうねぇーー。ふむふむ。

結構長い説明書きなんで、全部書き取らないまでも私が必死に書いてる脇で、スマホでパシャりとしてるお姉さんがいたんですよねー。出光っていつから写真オッケーになったの?なってないと思いますが。。。

そういう私も、知りたかったら、図録を買えばよいのですけど、欲しい情報がなかったし、内覧会なんかで写真だけで記録すると頭に入らないことも多いから、時間制限がある中、一生懸命メモをしていた私です。

その図録を買わない理由になった、説明が欲しかったモノ=安政二年「形物香合相撲」という番付のコピーが香合の並んだ真ん中にどーんと飾られていてこれがオモシロイ。
そもそも相撲の番付の読み方が全部わかっているわけではないけど東西を分ける真ん中の「柱」といわれる部分に「蒙御免(ごめんこうむる)」って書いてある部分に、「形物香合相撲」と書いてあって、あっ、そうそう、文字も相撲番付に特有の江戸文字の相撲字ではなくって、細めの特徴的字体。
その下には「直斎好名取川」とか「庸軒棕有梅」とか???な名前の〈行司〉が3名(名?)その下には〈頭取〉というのがまた3名(物?)。うんこれはなんとなくわかるぞ。「黄瀬戸根太」「伊賀伽藍」「志野宝珠」。
そして、更に「織部菊兜」「同(織部)青分銅」「仁青鷹」「乾山鑓梅」。。。。って書いてある。
頭取ってなんだろう??


説明がなかったので、検索してみたら出てきました。http://verdure.tyanoyu.net/katamonokougoubanzuke.html
ふむふむ

依然頭取の事は良くわからないけど、楽しいことには違いなく。。あっ、そだ。この番付の中に《古染付周茂叔文香合》を始め三作が入選(?)しているんですね。大関とかではなく、前頭何枚目なんか?という位置ですけど、少なくとも安政年間に「コレハ!」という香合を三作ももっていたら、広い展示室を、自分の美術館の古染付や祥瑞で埋め尽くすことができなくても特集したくなるよね。。
(イヤ実ハ、後半ハ屏風ガ立チ並ブトイウ状況。)


話が前後しますが、古染付というのは明時代(天啓年間(1621年―1627年))景徳鎮の民窯の中でも胎土や釉薬の材質であまり上質でない粗悪ともいえる雑器で、殆どが日本にあるそうです。
 形の悪いものも愛でるようなココロは茶人の粋ということですよね。

色絵のものは「天啓赤絵」と言われているそうです。幾何学文様や区画線を廃して自由に描かれ、古染付けの食器類には御所車や市女傘といった日本的柄があるものとか(デモナンカ日本ノ御所車トハ違ッタ感ジ)、水差しも日本の陶器に似せるために肉厚にしたりと、もともと日本向けに作られたものが殆どなんですね。でも古窯址が見つかっていないから、まだ判らないことがありそうですね。

確かに絵付けも下手くそだし、虫喰いがよいとはいえ、なんか、ガラクタちっくだわよねぇ。。。。

特別出品されていた石洞美術館の所蔵品、殆どが筍や茄子などの形をした向付で、その形の自由さには楽しい気持ちになったけど、絵付けは相変わらず揃ってなくてへたっぴなの。枇杷とか、扇とか。。ウサギとかヤギとかの顔も怖いし。。魚とか馬は可愛い。

《古染付葡萄棚文水差》
そんな中、さすがにパンフレットの写真に使われているだけあって、↑《古染付葡萄棚文水差》とか、双耳がお魚の作品《古染付高砂花生》はいいよね。


ん?この花生、どこかで見たような気が・・・・・。


《古染付高砂花生》 これが出光美術館の




















そうだ!トーハクのニュースレターだ。ってか、4月に常設で花生特集やってたときに、実物を見た記憶があるんだ!
タイトルも同じ、でもお魚の柄と人物の絵柄が違うね。こうやって、いくつも作って輸出されていたのかしらね。

《古染付高砂花生》こちらは東京国立博物館所蔵

 そういう楽しみは別として、でもやっぱり

と、こ、ろ、が。。。

第七章の祥瑞の展示(コチラ=祥瑞の解説プレートには↓のウサギが印刷されてましいた。。。)

にはいって、端正で美しいデザインが並び始めると、フシギな感覚に襲われることになります。

キレイすぎて、なんか面白みがないなー。瑠璃祥瑞なんか、ぎらんぎらんで、どうよって感じ。

ただ、パンフレットに出ている《祥瑞蜜柑水差》は面白かった。
写真は正面(なのかな?)に鴛鴦の絵が描かれているけど、この裏側は山水図という「片身代わり」(陶器の半分ずつが異なる調子に焼成されたもの。また、半分ずつに異なる色の釉(うわぐすり)をかけたもの。)という手法を使っていて、この手法は中国ではあり得ない手法なんだそうな。つまりは日本からの注文品ということがわかるという寸法。でも蓋裏には中国の陶工の意地が発揮されている文字と絵が描かれているそうで。。。色々その頃もあったのね・・・・

《祥端蜜柑水差》

まぁ、そういう訳で、私でもゆがんだ器の形や片身代わりなんかに面白みを感じるんだから、日本人に備わった美意識って、そんなところにあるのかもねぇ。。
とりあえず、せっかくメモしたので、祥瑞とは・・・明時代の崇禎(すうてい)年間(1628-44)に主に日本の茶人達からの発注によって作られた青花磁器で、染付銘のいくつかに「五良大甫(ごろうだいほ)呉祥瑞造(ごしょんずいぞう)」という名前の記載があることから名前がついたそうです。もともと景徳鎮の官製窯である御器廠の生産がストップした後も、技術が継承されて上質な胎土と青料を使った端正な器形と丁寧な文様が特徴なんだそうです。確かに色も鮮やかだし、緻密な柄。しかも器の全てを埋め尽くす感じのものが多いですね。ま、だから、息が詰まるという面があるんだけど。
勿論日本からの注文だから器の形には日本独特の「扇形」「沓形」「州浜」という桃山陶風のものが少なからずあるので、もっと、勉強していくと違った見え方がしてくるのかな・

いずれにしても今日の感想としては「古染付」に軍配を上げたい。


やきものに親しむⅩ
日本人の愛した〈青〉の茶陶
古染付と祥瑞
出光美術館 2013年5月25日(土)-6月30日(日) ---この展覧会は終了しています。

2013年6月22日土曜日

微光と湿潤感の素晴らしい描き手ですね―生誕140年記念 川合玉堂―日本のふるさと・日本のこころ@山種美術館×青い日記帳のブロガー内覧会

江戸時代までの絵は好きだけど、その後の画壇のことは松園やら、大観程度の名と絵は多少見たものの、全然詳しくないまま、院展にしろ、日展にしろ、公募展を見るようになって、その決まりきった号数の中に押し込められた日本画が好きになれず、海外の画家達の絵ばかりに目が行っていた私を、日本画の世界に目を向けるようにさせてくれたのが山種美術館さんであります。なので、できうる限りこちらにお邪魔するべく、伺ったら次の前売券なんぞをせっせと購入したりしているのでありますが、年間パスポートできないかしらん?


それはさておき、そんな山種美術館がブログ「青い日記帳」の中村さんとタイアップした内覧会(割引入場料と解説+お菓子つき♪)を開いてくださるというFB記事を見つけ、早速応募、今回は先着順ということで、当たらないかも。。という不安もなくやってきました!・・・と言いたいところなのですが、オッチョコチョイの私、当日になって、確認メールを「プリント」して持ってこなくてはいけないという指示事項に気付き、しかもプリンタインクが一部欠けていてどないしよう???と焦った事は、ナイショ(嘘)です。

この内覧会、何が素晴らしいって、川端龍子の《梅(紫昏図)》一点を除き、作品の一点撮りは勿論、クローズアップ等、自由に写真を撮影させてくださる事。と、いうか、逆に、自分の目で切り取った写真をアップすることも奨励してくださること。
とはいえ、いくら、山種さんの厚みの薄く、反射の少ない、特殊なガラスケースといえども、素人写真では、どうしても、ケースに反射した映像が写りこんでしまう。。という問題はありますが。。。(滝汗)
いずれにせよ、写真満載の本日のレポートは勿論、美術館の許可を得て撮影させて頂いております。
でも普段は撮影できませんので、あしからず。その代り、写真の綺麗で、そして薄く仕立ててある図録が1000円で購入できますので、記憶の代用をそちらにお任せすることは誰にでもできます。(笑)

さて、川合玉堂。
冒頭の告白通り、山種美術館さんで何枚か拝見するようになったけれど、今回の展覧会に至るまで、イメージとしては、なんか、田舎とか、景色とか、まんがちっくな「人」を描いているなぁ、程度で、気に入った作品とか、強い印象はなかったわけです。確か2007年に没後50年の展覧会がこちら(三番町時代)であったと思われるのですが、行ったのかもノート等を探さないと判然としない程度。今回の展覧会は、この美術館がお持ちの全71点をはじめ、近美や玉堂美術館(というのが、青梅にあるんですね。。初めて知った!)から借りてきた作品もあわせ関東では30年ぶりの大回顧展というわけです。

そんなわけで、今回の内覧会後の交流会
(つぶやきやらの投稿のネタをスライドで館の方が紹介しながら、他の人はこんなところに注目していたんだ!と気付き、もう一度焦って会場に行くことが可能な時間・・ですかね。前回の竹内栖鳳展(やっとこさ、記事あげました・・苦笑) http://pikarosewine.blogspot.jp/2012_10_01_archive.html
の時は用事があって交流会始まる前に失礼したので、初めて全容がわかりました。(でへ))

で最初につぶやいてみたのは、こんなこと。


#玉堂展 今日は山種美術館で内覧会。ウェブでみて随分作品の数が多いと思っていたが、所蔵の七十一点全てを公開しているというゴージャスさ! pic.twitter.com/pZP7xQU0Yr 

全点公開(前後期に分かれていますが)は今回の展覧会のみどころです

数ばかりではなく、15歳の頃の写生帖(コドモの時から巧い)

《写生画巻 「花鳥」15歳写生》明治21年 一部 玉堂美術館蔵
《写生画巻「花鳥 15歳写生》 一部 丸山派が写生を大切にしているということも影響があるのでしょうけど、うまい人は子供の時から巧いですよね

から晩年の作品まで網羅されています。
《沸く雲》 昭和31年 亡くなる前年ですね。でもしっかりした文字と雲の表現が美しい

巧い人にありがちな、ひとつところに飽き足らない要素は、最初に習った円山四条派にとどまらず、その画法で賞を取った内国勧業博覧会に出品されていた狩野派系の橋本雅邦の絵に感銘を受け、妻子を引き連れ京都から東京に行って弟子入りする行動力に現れています。
それ以外にも琳派風のたらしこみや朦朧体など色々な手法を取り入れ自分のものにする努力をしていたようです。

巧さ・・・今をときめく松井冬子画伯をして第一室の最初に掛かっている《鵜飼》を見て、「21歳でこの絵をかけたなんて、負けた!」と言わしめたとか。(ちなみに図らずも玉堂の命日である今度の日曜、6月30日の日曜美術館の本編で、今回の展覧会が取り上げられるそうで、そのゲストが松井さんというわけです。)

山崎館長は、ご自身の研究対象である速水御舟には松井さんは全然反応しないのに・・・と嘆息気味ではありましたが。

それくらい巧い、ということなんですけど、それでも、それだけだったら、やっぱり、印象が散漫なままだったかもしれないので、解説頂いたキャッチーな言葉をご紹介しつつ、玉堂の魅力と特徴を探ってみましょうかね。

筆ネイティブ・・・・(先般講演会をされた河野先生のお言葉だそうです。)
玉堂はスケッチも全て筆で行っていたみたいですね。絹本に墨は難しいと聞いたことがありますが、やはり巧い人なんだな。
なるほど、そうやって画帳を眺めてみると・・・・たしかに筆のタッチ。ま、↓はさすがに紙本ですが。


《写生帖「写生縮図」明治25年7月》解説にもあるように前年の岐阜の大地震で実父を亡くしたそうですが、倒壊した石灯籠や、応挙が描いていた犬の模写などをして勉強に励んだようですね。》

いや、実際、玉堂は字も達筆で、俳句も作られたそうなのですが、どうです?
《秋夜》昭和30年 紙本・墨書淡彩














この、扇面の文字と小さきもののへの慈しみと観察がするどい筆使い!ステキですよね。これは大変気に入りました。

《秋夜》 部分を拡大して。。。このキリギリス、なんとも美しい

微光表現・・・(これも河野先生のお言葉として紹介されました)
日本の優れた画家は太陽光とは違うほのかな光の表現に長けているとか。(つまりは同じ光に注目していても外光派とか印象派とは違うという意味でしょうか)そして玉堂もその一人、というわけです。これが、ウェットな感覚の日本の風景にあっているとかいないとか。

たしかに、どこから光が当たっているわけではなくぼわっと、明るい感じがする絵が何枚もありますよね。

そして、笑ってしまったのは、

重量文化財・・・・またまた河野先生のお言葉
えっ?重でしょ?いえいえ、重要文化財になるには重量があるほうが可能性があるとか。その真偽のほどは別として、近美よりお借りしている《二日月(ふつかづき)》は、その素養があるとかないとか。。笑 あれっ?《二日月》は軸絵だから重量あるわけないじゃん。隣の《紅白梅》の屏風だったかしらん?
ま、これは、玉堂の特徴を現した言葉ではないけれど。。苦笑

いずれにせよ《二日月》は夕方の景色を描いていて、赤や青の化学顔料にも手を出したらしいのですが、(比較的すぐに?)退色してしまった事を玉堂は残念がっていたとか・・どれが化学顔料の退色痕かは判別がつきにくいですが。
《二日月(ふつかづき)》明治40年 東京国立近代美術館蔵



判別つきにくいといえば・・・
二日月の淵の影は、金なのだそうだけど、写真にするのは難しいねぇ。。肉眼では何となく確認でけた #玉堂展 pic.twitter.com/xwRj1ENWNx

・・・ってぇ。。慌てて書いたら縁が淵になちゃったし、まるで月の淵のようになってしまったけれど、左側の葉の縁デス、全く慌てもんめ!

《二日月》 部分 ツイートした時はデジカメじゃなかったので色がわからなかったけど、この写真は結構わかりやすい?かも。。。


キャッチーな言葉以外に玉堂の作品の特徴を私なりに表現してみると・・・

その金使い、日本画描いているひとなら、誰でもどこかに忍び込ませていることは多いとは思いますので、これが特徴という風にはいえないけれど、今回初めてよくわかったのは、岐阜出身の玉堂ならではの画題。。。

鵜飼い

や、釣りをする人の場面が多いこと!それで、つぶやいたのは

玉堂は鵜飼いの絵を4-500描いたとかいうことですが、今回展示のいずれも色々な角度で、炎の色も金だったり、黄口朱?だったり。。。 #玉堂展 pic.twitter.com/eecVynggdd


黄口朱?と書いた部分、黄口本朱などとして専門画材やさんのページに色がでていますね。例の松井画伯が負けたと悔しがった《鵜飼》(明治28年)に使われているのはこの赤、これに対し、昭和14年に描かれた《鵜飼》では、篝火の炎の色が金色に輝いています。もう一枚展示されていた昭和23年の《鵜飼》の絵ではまた赤っぽい色になっているけど、どんな色の絵の具を使ったのか、画材やさんのページをにらめっこしながら見るのも楽しいかも。

そして、私がこれは!と思ったのは

湿潤な空気感と雨の表現が秀逸

春草の描く朦朧体が好きな私にとっては、やっぱり、その点がツボでした。
《渓山秋趣》 
橋本雅邦に入門して描いたという狩野派風の山河の絵・・とはいいながら淡い色の水流が穏やかな印象の《渓山秋趣》

の次に並ぶ《雨江帰漁(うこうきぎょ)》(明治45年/大正元年)は朦朧体・没骨法を思わせる描き方ですが、雨の表現が秀でています。写真が拙いせいもありますが、やはりこのタッチは肉眼で見たほうが圧倒的に素晴らしい。
《雨江帰漁》 
雨の表現は他にも《烟雨(えんう)》(昭和16年)、《水声雨声》(昭和26年)などがあり、私にとっては、こういう絵を描く人なんだ、と新たな発見となりました。
《烟雨(えんう)》文字どおり、けむるような細かい雨のもたらす空気感が素晴らしい
《水声雨声》 水車におちる水や人が特徴ということなのですが。。。

《水声雨声》(部分)私にとってはこのけむるような雨の表現がツボ・・絵の見方は人によってさまざまということで・・

優しい人柄が絵に表れている
館長が一番お好きだと言われていたポスターにもなっている《早乙女》
《早乙女》昭和20年頃 表情もそうなのだけど、戦時下でありながら、日々の人々の営みを描き続けたということで、ある意味ほっとさせられますよね。でもあぜ道は琳派風のたらしこみ技法によって描かれたりしていて、なかなか乙な作品ではあります。最近田植え体験した私には親近感が沸く絵です、個人的には・・・
を始め、私が「まんがちっく」な「人」と言っている人物の表情を見ると、皆笑っていたり、ほのぼのしていたりするわけですが、そればかりでなく、なんと唯一の戦争画といわれている《荒波》ですら・・・近美に掛かっているフジタを初めとした戦争画の荒々しさや、絵に篭められた悲哀や皮肉・・・とはかけ離れた世界感。確かに荒くれた波なんだけど、水色を使っているせいで、おだやかな印象が残ります。

戦争画を描いたと聞いても直ぐにそれとわからない《荒波》は玉堂なりの戦争への気持ちが表れているとのこと。画家の優しさがこういうところにも現れているのね。全体的に色も柔らかい。波だけが荒ぶれている。 #玉堂展 pic.twitter.com/Va8BdDXZSv
posted at 19:08:19

あと、殆ど海外に出なかったという玉堂が一度だけ岡田三郎助(オット、コノ間ブリヂストンデ登場シテマシタヨネ)とともに朝鮮半島に行った時の絵《緑陰閑話図》に登場する老人のにこにこした顔、これがまたほのぼのしているんだなぁ。。この絵は戦後行方知らずになって、今回の展覧会を期に個人の方(大倉家ノヨウデスネ)にお貸し頂いた、そうで、昭和5年以来一般の目に触れるのは初となるレアもののようです。
《緑陰閑話図》上が全体、下が部分 良い感じですよね。
レアもの、といえば、今回の図録に載っていないのが、参考出品の《写生入り書簡》(昭和5年)香港に転勤している娘婿に孫の出生を知らせる手紙です。当時は写真の現像に時間がかかったので、一刻も早く子供の顔を見たいだろうという思いで描いて送ってあげたようです。こんなところにもやさしさがあふれていますね。
参考出品《写生入り書簡》
《書簡(山崎種二宛)》
書簡は、こればかりではなく、深く親交のあった、山種美術館創設者で現館長の祖父でおられる山崎種二氏との交流を示す書簡も展示されており、これがまた達筆で、目の保養になります。





交流という意味では、横山大観、竹内栖鳳と昭和9年に、そして昭和17年の栖鳳の逝去後は大観と川端龍子との《松竹梅》をお題にした作品を描いています。栖鳳の葬儀に向かう展望車つきの特急かもめに乗った玉堂がやや興奮気味に書いたという《加茂女13首》は栖鳳との交流がなければ生まれなかった作品でしょう。今回写真NGの龍子の《梅(紫昏図)》は黄昏は黄色というイメージを払拭する大胆な紫色で、良い絵です。是非実物を見ていただきたい。
そして玉堂の竹には可愛い鳥が描かれています。このあたりが玉堂らしい・・・とか。
左 栖鳳の梅 中 大観の松 右 玉堂の竹

左 大観の《松(白砂青松)》右 玉堂の《竹(東風)》 昭和30年

ちとピンボケになってしまいましたが《竹(東風)》の中に胸の赤い鳥さんが・・・


さて、では、今回、私がどの絵に心を奪われたか?
今まで書いてきたなかでは
■雨のシリーズは、心惹かれます。《雨江帰漁(うこうきぎょ)》《烟雨(えんう)》《水声雨声》
■《秋夜》
■《荒波》の海の水色、この水色は《渓山秋趣》でも似た色になっていて、面白いですよね。
■《鵜飼》のシリーズは見始めると結構はまりますね。

そしてまだ触れていなかった作品の中では・・・
■《虎》 昭和20年頃 色々な人の虎を見てきましたが、この姿勢はいいですね。でも写生をしていたという割に鳥とか虫はいいけどそのほかの動物はピンと来ないかな。。。

■《ふき》 このふきに止まっているほたるの絵がFBで紹介された時、是非見たい、と思った作品です。玉堂には直接関係ないですが、内覧会の時にちょっとしたエピソードが紹介されました。
いつも山種美術館の展覧会では、併設のカフェ椿で、展覧会に因んだ和菓子(や温麺の時もあったな)を提供しているのですが、交流会の時に中村さんがこの和菓子ができるまでの試行錯誤を取材したとかで、この蕗をモチーフにした菓子が他の二点の失敗作とともにご紹介されました。
接写させていただけるのが、今晩の内覧会の特典だす、ついでに、お菓子の失敗作迄見せて頂けるのも特徴!この蕗にとまっているホタルは、じつぶつもみるにが楽しみにしていた絵だけに、失敗作であっても、食べて見たかったなー。笑 #玉堂展 pic.twitter.com/h3KilhbgDF
(私のツイートもまたまた失敗作ですね。自爆  実物を見るのを楽しみにしていた。。と書きたかったはずですが。。滝汗)

これが《ふき》 色合いも淡い緑の葉にほたるが一匹

絵と同じようにふきの上にホタルを載せてみたもののちょいと美しくないということで最終的に落ち着いた菓子はじつに涼しげですよね♪
小さくてわかりにくいかもしれませんが左がふきです。


これも失敗作の梅 《紅白梅》図屏風からの発想のようで、悪くないように思えますが。。。

これは松竹梅の竹の絵から発想された筍とか。。
 いずれにせよ、この和菓子の制作裏話は青い日記帳で必ずや紹介されるでしょうからこの辺で。。で、恐らく一番気に入ったかもしれないのが・・・

■《紅白梅》 玉堂美術館蔵
尾形光琳の《紅白梅図屏風》-国宝 MOA美術館蔵 http://www.moaart.or.jp/collection/japanese-paintings54/
を連想させる・・・と解説されていたのですが、確かに技法的には琳派的手法であるし、紅白梅図なんだけど、どうかなぁー。光琳のはあの流水の超モダンなデザインと古びた紅白梅が左右に配されたところが特徴ですが、玉堂には流水もなければ古木の枝ではあっても、元気な枝ぶりで、実にリズミカルで美しい屏風絵という印象。むしろ、《燕子花図屏風》 -国宝 根津美術館 の方が印象的には近いかも。いや、燕子花図屏風》だって、リズミカルにプリントを連続させたような、パターンの連続=その時代としては大変斬新な試みで、やっぱり、この《紅白梅》はそれとも違うな。とはいえ、リズミカルな印象は同じ・・・

右隻側からみると、全ての枝が繋がっているように見え、非常にしっかりした梅の木の風情があるし、
左隻側からは左隻側に紅白がちらされているせいで、より梅の優美な表情がわかるし、
左隻の梅は途中から生えたように描かれている一方、右隻は屏風の下から木が生えているように見えるので、左右のアシメトリーな感じが逆に不思議なリズム感を更に出しているように思います。
それでいて、近くによれば愛らしい鳥が枝に止まっているのも玉堂らしいチャームポイントなのでしょう。箔がすれていないので、まだ新しく大変美しいのも、また印象を強くさせた原因かもしれませんが、いずれにしても、玉堂のイメージを新たにする作品でした。




最後に・・・
プリントノカミワスレソウニナッタ私ガイエタギリデハアリマセンガ、アイカワラズ館長ノ説明ノ時にパシャパシャヤッテイル人多カッタナァ。ソレニオハナシニウナヅクノハイイケド、大キナ声デウンウン、ッテイウ声ヲアゲル人ガイタノモ耳障リデ集中デキナカッタナァ・・・モウスコシ周リノ参加者ニ気使イマショウヨ・・・ともう一度つぶやきたかった私でした。

いやいや、山種美術館さん、中村さん、素晴らしい内覧会を開催して頂きありがとうございました。
後期は、玉堂らしからぬ(?)歴史人物の絵など、写真が撮れない分、じっくりと、見させていただこうと思います。

【特別展】生誕140年記念 川合玉堂―日本のふるさと・日本のこころ―
山種美術館
2013年6月8日(土)~8月4日(日) 前期  6/8-7/7  後期 7/9-8/4

おまけ
いっつも、地下の展示室に下りると自動扉があって、そこに窓があるなー、と思っていたのですが、(他の美術館では窓のついた仕切り扉は見ないように思います)その写真をとってつぶやいてくれた人のおかげで、その秘密(大げさ?笑)がわかりました。
なんと、正面に掲げた看板の文字、或いは絵がその窓から見えるように、毎回看板を作る時に計算して作っているとか。今回は真ん中に文字が来ていますが、次回から、注目していきたいと思います。


2013年6月18日火曜日

【終了後感想文】年間パスポートは、お早めに! エミールクラウスとベルギーの印象派@東京ステーションギャラリー

しもた。前回の木村荘八展の期間中に買わにゃあかんかったん、下手してもうたわー。。
いや、年間パスの事ですよ、年間パス。もう売ってないんですって。そう書いてあったのかもしれないけれど、損したわー。

だって、この東京ステーションギャラリー、ちょいと広いから昼休みで見るには二回にわかるが丁度よし、って感じだったのよねー。パスあれば何回も行って確認できるし。。。

が、ないとなれば仕方なし。気合を入れて回りましょう・・・・

という訳なので、細かくメモとったりはせずに、気に入ったのだけじっくり見つめる方式で。。。

さて、クラウス。明治維新後の東京美術学校の洋画の人たちが黒田を始めとして続々とパリに向かいコラン師など、ツテを頼ってお勉強した、というお話は、ちょうどこの間ブリヂストンで勉強しましたね!http://pikarosewine.blogspot.jp/2013/06/paris-1900-194、5.html


その頃の留学先は殆どパリ、というかフランスでしたが、勿論お隣の国にも少なくとも二人は留学した、その師がクラウスさんだった、という事なわけです。


ベルギー印象派の画家、エミール・クラウスについての日本初の展覧会を開催します。1849年に生まれたエミール・クラウスは、フランス印象派などから影響を受け、独自のルミニスム(光輝主義)といわれるスタイルで、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍しました。太田喜二郎、児島虎次郎という2人の日本人画家がクラウスに教えを受けたことでも知られています。
ベルギー近代美術史の展開を考えるうえで、また印象主義の国際
的な伝播という観点から見たときに、そして日本への影響という意味でも、非常に重要な画家であるにもかかわらず、これまで日本ではクラウスをテーマにした展覧会は開かれてきませんでした。

本展は、フランス、ベルギー、日本の印象派の作品とともにクラウスの代表作、あわせて計65点を展示し、国際的な印象主義の展開の中にこの画家を位置づけ、陽光あふれる田園の情景や、自然の中で暮らす人々の姿をいきいきと描き出したクラウスの魅力に迫ります。[美術館サイトより]

エミール・クラウスはブラッセルで開かれた「20人会」の展覧会でスーラの有名な《グランド・ジャッド島の日曜日の午後》→コレデスネhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%88%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9B%9C%E6%97%A5%E3%81%AE%E5%8D%88%E5%BE%8C
が展示され衝撃を受けたんだそうです。その頃流行のモネやルノワール以上だ!と興奮したようです。そのモネやシニャックも出展したという「二十人会」が解散後は「自由美学」「ルミニスム(光輝主義)」に収斂していき、フランスの真似ではない独自性を目指したようですね。
とはいえ、その「二十人会」にフランスの有名画家が随分出展していた・・つまりパリとブラッセルは距離的にも交流という意味でも近い存在だったんだな、ということ。独自性とはいいつつも影響は大きかったのでしょうね。

展示は章立てとは全く違い、第二章から始まる感じですが、その合間合間に第一章にまとめられているエミール・クラウスの作品が登場したり・・

ちなみに章立ては
第一章 エミール・クラウスのルミニスム
第二章 ベルギーの印象派:新印象派とルミニスム
第三章 フランスの印象派:ベルギーの印象派の起源
第四章 ベルギーの印象派 日本での受容

うん確かにルミニスム・・明るい絵で、印象派でも、衝撃を受けたというスーラの点描とは一味違う感じですね。とはいえ、光を捉えるにあたって粒子・・光の粒に目を向けるとどうしても点描的になったりしますよね。

中央に位置する家の屋根が濃い紫の記憶が印象に残ったのはアンリ・エドモン・クロスという人の《雲》。この人はフォービズムに影響を与えたようですね。

そして、次に印象的だったのはコランになじめず太田を頼ってベルギーにやってきてゲント美術アカデミーに学び、クラウスの批評を求めたという児島の《和服を着たベルギーの少女》。
児島虎次郎《和服を着たベルギーの少女》
美術館サイトより
このカラフルな着物は西洋の娘が着て初めてその輝きが増すんじゃないかしらと思うくらい明るい色調のこの絵は1911年のパリのサロンナショナルに入選、児島はその後アカデミーも首席で卒業し1912年には凱旋帰国をしたそうです。

その後は大原美術館のコレクションを築いたそうですが1919年に二度目の渡欧をし、更に買い付けを続けたとか。二度目の渡欧後の作品の展示がなかったのが残念ですが、その後はクラウスやルミナスムの影響はないのかな?

そうそう、本展の主役はクラウスでしたね。

クラウスの作品では巨大な《そり遊びをする子どもたち》
これは本当に大きくて、近くでみても勿論よいですが、あの広い展示室の反対側から見ると、少しピンクがかった薄い冬の陽の光なのかな、その光が氷に反映して、つかの間の冬の楽しい時間を表現しているように思える佳作です。
エミール・クラウス《そり遊びをする子どもたち》

そして、この《レイエ河畔に座る少女》の光は、本当に明るくて、しかも印象派とも違った光の感じはまさに彼が狙っていた表現なのだろうなー、と思わされます。写真のようでもあり、でも写真では表現できない粒子の大きさ。
エミール・クラウス《レイエ河畔に座る少女》
美術館サイトより







後、面白かったのは、モネと同様のウォータールー橋を描いた絵《ウォータールー橋、黄昏》。
モネは何枚も描いているので勿論一枚と比較することはできないけれど、モネの描くそれは、朦朧とした空気の中に橋がボーっと浮かんでいるような印象ですが、こちらは遠くから見ると特にコントラストが強い印象です。
どちらが良いということはないけれど、光を捉える時の見方と表現の仕方によって、同じ風景でも違う印象になるという好例なのだと思います。
エミール・クラウス《ウォータール橋・黄昏》
これは六本木ヒルズクラブのタウンガイドから

クロード・モネ《霧の中の太陽(ウォータールー橋)》


もたもたしているうちに会期も終わってしまったけれど、なかなか良い展覧会として周りでも評判がよかったですね。石川県立美術館他国内巡回の予定があるようです。

2013年6月16日日曜日

自分にも描けるじゃん、と思った時点でそのアートの世界に入っているーーハーブ アンド ドロシー ふたりからの贈り物

最初のドキュメンタリーを見ていたので、続編ができると聞いて、行きたかった「ハーブ&ドロシー  ふたりからの贈り物(原題は50 X 50 –fifty by fifty)」


を見に東京都写真美術館に行ってきましたーー。最初は5月までだったので、行けないかも(何しろ一日2回とかの上映なんで)と気がもめたのですが、好評ということで、行くと決めた時点では22日まで、それが、行ってみたら6月中まで、しかも、その日は佐々木芽生監督のトークショーもあるというではありませんか、ラッキー♪
まだ上映しているので、映画の展開や、関連記事は↓をご覧いただくとして

実は彼らが最初にDCのナショナルギャラリーに寄贈を決めたという記事がNYTに出た時には、リアルタイムでハーブが昔勤務していた郵便局の目の前に居てNYTも取っていたのに、読み飛ばしていたというのか、目に入っていなかったというのか。。。ダメダメな私。同じ通りの先の方の美術館支援活動は彼らと同じように自分のお給料の範囲内でやっていたというのに。。

だから、という訳ではありませんが、彼らの徹底した好きなものに身の丈の範囲内で入れ込む姿勢とその審美眼に最初のフィルムで魅せられた・・・もとい、実は最初のフィルムでは、彼らが支援していたアーティストが取り上げられた時や、所せましとアパートの壁や天井から飛び出しているのが映った時、ナショナルギャラリーの中で打合せをしている画面等で登場するときに映るだけで、纏まっては見られていないんですよね。だから審美眼の程は確認しきれていないというのが本当のところ。
実際、トークショーの時、佐々木監督自身が、自分は、小さい時は絵を描くのも好きだったのに、中学(だったかな)の美術の先生の方針と合わず、嫌いになってしまい、こういうアートのどこか良いかを理解していなかったし、一回目のフィルムの時には殆ど彼らの集めた作品を見てなかったと言っていたのが印象的でした。だからこそ、アートラバーでない普通の目線で彼らを捉えることができたのかもしれませんが、今回は少し勉強しようと思って、最近はスケッチをしてみようか等と思うように至ったとか。二人の熱意が、彼女自身を変えていったんですね・
横道にそれましたが、いずれにしても、その熱意、と作品を全て纏めて預けてくれるからとナショナルギャラリーに寄贈するスケールの大きさというところまでは一作目で垣間みることができたわけです。
ただ、こういう事ができるのも彼らがNYという美術愛好家にとっては、最高の環境にいたことが更に後押ししたんだ、という事も改めてわかるのが二作目です。
一方で、ベッドの高さがどんどん高くなる(↑の記事を読めば、それは冗談だということがわかりますが)ほど、作品がベッドの下等に眠るくらいであれば、こうやって美術館に並べてみると、彼らの審美眼で選ばれた作品が、素晴らしい輝きを持っていること、また一作だけではなく、流れで見ることによって、与えられる印象というものが違うという事等がわかるわけですね。
田舎(失礼)州の公共美術館ともなれば、購入する予算はゼロ、全て寄贈でなんとかやっていたり、よってもって、いきなりミニマリストの作品が飾られても、戸惑う鑑賞者も多い(トハッキリハイッテナカッタケド、ソウトレル発言ガ鑑賞者ノクチカラデテマシタ)ところとか、経済危機のあおりを受けて、閉館に追い込まれたところが出てきてしまったり、(ダカラSin-Cityナノヨネ・・トツブヤイテミル)、折角のGiftを生かし切れないところも当然出てくるかもしれない。常設で飾ってくれないかもしれない、と色々な問題(特に、今後の・・)の現れることが予想されるような映像も流れました。
表面の事象は違うかもしれないけれど数か月前に読んだ福島の美術館が今直面している問題の事を書いた本の内容を、映像を見ながら思い出したりして、大都市ではないところでの美術館運営というものが抱える問題点というものも、期せずしてあぶりだすことになっているなぁ、と。
尤も、ホノルルの美術館の人の語るように、ルネサンスのタペストリーを見て「自分にもできる」とは言わないけど、現代美術であれば「自分にも描ける」と言ったりする人が出てくるけれど、そういう評価ができるということは、それだけ身近なものだということであり、評価を始めた時点で、その人は、もうこの世界に入っている、そういう語らいができる作品があるというだけで、地元の人の為に大きな助けになっているといった極めてpositiveな意見もあったので、結局のところ、どう鑑賞者に向き合うかの美術館側の姿勢も大切なのかもしれない。。とも思いましたけれども。

そんなわけだからなのかなぁ、最後の方で出てくるハーブが亡くなった後のドロシーの言葉には、ドキッとさせられます。「ハーブは最初50州に分散させることには反対だったの」。実は佐々木監督もその時初めて知ったそうです、彼の最初の気持ち。

ただ、やっぱり、このプロジェクトをやってよかったと最後はハーブも思ってくれていたんではないかしら。ハーブは、佐々木監督が最初にお会いした時から「自分たちのやっている事は歴史になる」と随分歴史という言葉を使っていたそうなんですね。(↑のニューヨーカーの記事にもハーブの言葉として歴史が出てきます。)実際全ての州の美術館に寄贈した人はおらず、ロックフェラーといえども、できていない偉業ですものね。まさに歴史を作ったわけですね。
もう一つ重要なのは、スミソニアンの公文書館に寄贈されている、展覧会の案内状、ちらし、批評記事等、様々なクリッピング。普通の人はある程度はとっておいても、すべてを保管している人はあまりいないでしょうからね。貴重な資料でしょう。活用方法が問題かもしれないでしょうが。

見ているうちに、是非50作品を確認する為50州全部の美術館に行ってみたくなりました。
全て展示されていないかもしれないけれど・・・ただ、ナショナルギャラリーと言えども、彼らの寄贈した2000点の作品を一堂に展示するということはないでしょうから、あえればラッキーということかな。
因みに、映画の中にも出てきますが、50X50 の作品は全てウェブサイトで公開されることが前提になっているようです。http://vogel5050.org/#works&institutions=10
ただ、展覧会も行ったのに、なかなか、写真がアップされていない美術館もあるものだから、ドロシーが文句を言っていますがね。(苦笑)でも、もしかして、その言葉の意味は、映像の最後に出てくる場面(寄贈して整理して今まであった作品たちがアパートから消えていくーーこれがリアルなのか、シミュレーションなのかイマイチわからなかったけれどーーそして最後にハーブの描いた絵だけが壁に残る)の後なら、当然そういう気持ちになるかも・・・・

映画中、一時は彼らのおかげで日の目を見たものの、暫く注目されていなかったアーティストの人が、このプロジェクトによって、再び自分の作品を見てくれる人が出てくることに感謝している場面がありました。フェルメールすらあと”3”の私に2500全部見るのは狂気の沙汰かもしれないけれど、少なくとも、こうやって公開されて、佐々木監督のおかげで、太平洋の向こう側から、作品を生で見たいなーと思う人が一人でも出ることが、寄贈という彼らの行為によって起こされた良い化学反応なんだと思います。

2013年6月8日土曜日

【終了後感想文】 Paris パリ 巴里・・・・日本人が描く1900-1945 ブリヂストン美術館

最近どうも会期末ギリギリになって滑り込む展覧会が多くなって反省している私です。でも反省だけでちっとも実行が伴わない実態。
特に場所的にそんなに押し寄せることが想像つかないところ、だから激混みじゃないだろうとの予想に立てる(そんなこと書かれたら美術館や主催者的には宜しくないですけどね。スミマセン)展覧会だったり、近いからいつでも行ける、とタカをくくりやすい、でも昼休みに見るには結局のところ、時間がないじゃないか!やっぱり週末にいかなきゃ。と逡巡する美術館だったり、もともと、さしたる興味はなかったのだけど、美術仲間や他のブログの評判がよかったりする企画なんかだとその傾向が強くなるワケで。。。

そんなわけで、先々週末も慌ただしく美術館の梯子。。。(最近はせいぜい一日2館(展覧会的には一日4だったりするけど)程度に抑えてますが。。。)をしてまいりましたよ。
まず、最初は・・

ブリヂストン美術館 テーマ展「Paris,パリ、巴里――日本人が描く 1900-1945

明治維新以降、西洋文化を学んでそれを乗り越えることが、日本のひとつの目標となりました。日本人洋画家にとって、芸術の都パリは、19世紀末から聖地となります。いつか訪れてその空気を吸い、泰西名画や最新の美術に直に触れてみたい、と強く憧れる対象となりました。1900年以降、パリを訪れる洋画家たちが増えていきました。聖地パリで、あるものは衝撃を受け、あるものは西洋美術を必死に学びとろうとし、またあるものは、西洋文化の真っ只中で日本人のアイデンティティーを確立しようと試みます。ブリヂストン美術館と石橋美術館のコレクションから、浅井忠、坂本繁二郎、藤田嗣治、佐伯祐三、岡鹿之助たちがパリで描いた作品約35点を選び出し、さらに他館から約5点の関連作品を加えて、日本人洋画家にとってのパリの意味を考えてみます。20世紀前半の、生き生きとした異文化交流のありさまをお楽しみください。

ブリヂストンは大型展でない限り激混みになることもないし、近い方だけど昼休みに行くにはもったいないし。。というわけで、ギリギリになる事が多い口。今回も終了前日。丁度土曜講座が終わった時間とかち合ってしまって、いつもよりは鑑賞者が多い・・でも、今回のテーマ展を聞きに来た方たちなので、お話されていても、いやな感じのしない程度。
私といえば・・・
丁度前の週に「夏目漱石の美術世界展」(東京藝術大学大学美術館)のブロガー内覧会に行って(記事は http://pikarosewine.blogspot.jp/2013/05/blog-post_31.html  )明治時代の官費留学生としての英国派遣の漱石が英文学の理解の為と称して貪欲に英国絵画の耽美な世界に引き込まれていた同じ頃、フランスに留学していた浅井忠と深く交流をしており留学中にも会っていた・・・ような音声ガイドを聞いた記憶がありまして・・・。

明治新政府が政治や法制等ばかりではなく、文学・美術に至る様々な分野で西欧文化を吸収させるべく官費留学をさせた、という懐の深さにしみじみと思いを巡らすことになったわけですが、1896年から黒田清輝を筆頭に、浅井、岡田三郎助、和田英作をパリに送り込む事を決めたあの頃の政官の人々の器量に脱帽しながら展示を見始めました。
タイムリー♪

1900年代に入るとからは安井曾太郎(07年渡仏)や梅原龍三郎(08年)らの私費留学生も登場するようだけど、その安井が留学のきっかけが、漱石に南画を教えていた津田清楓の渡欧だと知れば、面白さに拍車がかかるというものです。

余談はさておき・・・

この時代にパリに行くと言うこと、そしてそこで国を背負って貪欲に知見を広げようと気負ってやってきたであろう彼らにとって、まるで違う世界の体験はその後の人生や画業にいかほどかの影響を及ぼしたのか・・と思うと面白いですよね。

特にクスり、と笑ってしまったのは、小出楢重。フランスには「絵はどっさりあるが、芸術はない」と一刀両断に切り捨てたという小出だけど、たった五か月の滞在で、美術館と画廊巡り、そして買い物しかしなかったのに、そこまで言いのけたからには、パリのすごさに触れて、ちっぽけに見える自分を奮い立たせるべく、大きく振る舞わずにはいられなかった、或いは何か「事件」があったのではないか、、と勘繰りたくなるというもの。常設でもお目に掛かれる《自画像》が小品の多い小出にしては異例な大きさ(126×91.3センチ)のキャンバスという説明を読み、そこに描かれる神経質そうで、でも洋画家として洋風生活を送るとし、全身とてもおしゃれな恰好をした本人の自画像を見ると、自己顕示の強さと同時に多少の自虐の表情が画面一杯に広がっている感じを受けます。きっと、そうするほどのプライドに満ちた彼の事だからこそ、突っ張り過ぎて、フランス人と仲良くなることもできず、留学生仲間(少なくとも坂本繁二郎とは同じ船に乗っていたみたいだけれど・・・)と安易につるむことなく異国での孤独を感じながら、一人美術館・ギャラリーめぐりをし、なんとか5か月を乗り切ったのでは??と勘繰ってみたわけであります。


もともと東京美術学校の西洋画科に入りたかったのに、日本画科に入って(以前ブリヂストンで彼の日本画による静物画を展示していた時がありましたよねぇ)、その後転向したという彼の経歴から見ても、帰国後の西欧式生活態度からみても、洋画、ひいては西欧に対する憧憬は一方ならぬものがあったに違いないと思うわけです。でも初めての海外、石造りの建物や、大きな宮殿等が並び、体躯の大きく華やかな服装の人々を目にして、(当時の日本人の平均的な身長であれば)小さく、色浅黒くの自分の貧相な姿との比較をせざるを得なかっただろうし、委縮しそうになる気持ちを抑えながら、せめて言葉くらい自由に話したいが、それもままならぬもどかしさ等々、プライドが高ければ高いほど、或いは憧憬の強ければ強い人ほど、最初は打ちのめされるほどの気持ちに陥るだろうことは想像に難くないですからねぇ。
《自画像》は帰国後の制作ですが、《パリ、ソンムラールの宿にて》(三重県立美術館)という1922年の滞在中に描かれたと思われる小品は、その孤独感と打ちのめされ感を象徴しているように思えるんですね。画面中央より少し下を横切る窓枠とその下部分にある真鍮の鉄柵、窓は閉められ、ピンとはそのシャープな窓枠に合っています。本当は少し顔を出せば空も見えただろう筈の窓の内側から見えるのは、その先に映し出される道に沿っていつまでも続く(当時にしては)威風堂々たる高い建物。ただそれだけを描いているのだけど、、非常に心に残りました。
その辛い半年か一年を過ぎれば、言葉もできたり、フランス人のトモダチもできたりして、行ける場所も広がって、また見方が違ったかもしれないのに、と思うと彼の自画像から透けて見えるそのアンヴィヴァレントなプライドと自虐の危ういバランスの背景に興味が湧いてしまった、という訳です。自叙伝みたいなのないかしら。

さて、同じ留学中の過ごし方でも、画家によって随分と違うものなのね、という事をわからせてくれたのもこのテーマ展覧会。

(きっと)一人寂しく美術館巡りと買い物ばかりして短い滞在を終えた小出のような人もいれば、同じ時期に滞在していた画家とモデル(時間給を払って描いていたんですね)を共有するなど工夫し、裕福ではない(であろう)留学生活を豊かに身のあるものにしていったのが、浅井忠と和田栄作、或いは坂本繁二郎と遠山五郎。


最終日一日前だったので、残念ながら和田栄作とモデルを共にした浅井忠の《読書》は見ることができなかった(*)けれど、面影は同じ、でも描き方が全く違う坂本の《読書の女》と遠山五郎の《読書の女》の対比はなかなか面白かったなぁ。個人的には薄茶色と水色がベースの坂本の作品よりべたーっと塗りたくった 遠山の作品の方がベタだけど好きかな。でも坂本は坂本らしさ満載だから、それはそれで良しということで。。


(*)見ることはできませんでしたけど、インターネットミュージアムでちらっと確認♪ 今日の感想文で取り上げている絵も多く見られますので、引用させていただきます♪ ↓↓
http://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=view&id=267.

そして、更に黒田の紹介に拠ったり、自らおしかけ、フランスで師を得た積極派の画家たちもいたことがわかります。黒田の紹介でラファエル・コランという師を得た岡田三郎助の《臥裸婦》はその丁寧な指導の成果なのか、向きはかなりアクロバティックとはいえ、なんだかアングルを見ているような感じ。有名な《グランオダリスク》じゃなくって、衣をまとったほうの《奴隷のいるオダリスク》の方ね。(イヤ、ナラベテシマウト全然違ウイメージナンダケド、「アッ、アングル!」(ト、三四郎ノ、アッ、マーメイド!」ト言ウ場面ヲリフレインシテミル感ジ・・・))なんか、惹きつけられてしまいますね。

そのコラン師がどんな絵描きであったのかが分からないのが゙惜しい。説明に加えて欲しかったなぁ・・・・
・・・ということで、調べてみましたよ。
外光派と言われた師コランさん、ウィキペディアではご本人の写真しかないから、グーグル先生の画像検索をさせていただくと・・・
http://www.fukuoka-art-museum.jp/jc/html/jc04/01/raphael_collin.html
ん?なんか、ずいぶんと・・・・(以下 自粛)更に、検索していくと・・・あっ!こ、これは・・・・
http://island.geocities.jp/hisui_watanabe/art/artist/collin/collin.html
なるほど、《臥裸婦》はこの絵からの影響が大きいんですね、
このコラン師、別荘をフォントネ=オ=ローズという地にお持ちだったようで、(裕福ナ人ダッタノネ。)その地を題材に、辻 永(ツジヒサシ)が描いた《フォントネ=オ=ローズの春》は、いかにもフランスののどかな田舎といった風情の佳作で、これも惹かれたなぁ。

梅原龍三郎は美術館通いをした中で心惹かれたルノワールに会いにカーニュにまで出かけ、その熱意に丁寧に応えたルノワール師のおかげで、彼の絵はそのルノワールフレーバーを身に着けることになるわけです。

ルノワールの家に押しかけたのは梅原だけはなく、アトリエに訪ねて本人から直接500フランで《水浴の女》の絵を購入したという山下新太郎。その絵を使って研究した成果が表れているなぁ、と思えたのが《供物》。無花果の壁紙を背景にした女性が無花果を持っている姿は、「ルノワール写し」といった風情があります。ただ、肌の色は残念ながら、あのルノワール独特の透明感のある色合いまでは引き出せてないのが、残念。画材も高かったでしょうから、そこが限界だったのかなぁ。

その点は7年弱に亘る留学の総決算的に帰国前年に安井曾太郎が描いたという《水浴裸婦》のルノワール風裸婦でも表現しきれてなかった・・一番近いのは梅原の《脱衣婦》かしら。
ところで安井の《水浴裸婦》は裸婦はルノワール風、背景の山の絵はセザンヌ風という面白いものでしたが、エックス=オン=プロヴァンスのセザンヌのアトリエを借りて集中的に描いた留学生もいたんですね。セザンヌのアトリエを借りることができたなんて・・・・@@; 
その林倭衛も、留学当初はあまり熱心に描いたりしなかったみたいだから、わからないものです。

・・・と、あらま、随分書いてしまったわ。ホントハココカラガイイトコロナノニ・・・
 
いや、今回のテーマはParis パリ 巴里・・・な、訳ですけど、今までのパリとは「行くべき場所」としてのパリ。それは、第一次世界大戦が始まってもそこに留まった藤田にしても対象としてのパリを描いたもの一枚にとどまっている中で、なんといっても佐伯祐三の渾身の作品がパリという街を切り取っていますよね。絵より字がいいと言っていたという佐伯の作品は今回は6点が展示されていて見ドコロは同じオテル・デュ・マルシェというレストランを写実的に、例えばテーブルの六角形を正確に描いた《テラスの広告》とこれがデフォルメされて、テーブルが丸かったりしている《レストラン(オテル・デュ・マルシェ)》の二枚が並んでいることだろうかと思うのですが、そしてその対比はなかなか面白い。でも、私が一番心惹かれたのは《ガラージュ》という作品。画面の左中央から右上に向かって対角線のようにシャープに伸びる屋根、その奥行き感を出している、ガスライトがついているようにも見える看板と、壁に描かれた文字なのかな。この作品は文字であふれたほかの作品とは少し趣は違うけれど、構図、色といいシンプルな中に彼のきらめく感性があふれ出ているような、そんな感じを受けたのです。

フジタの場合は、皆が戦争で日本に帰国したときも踏みとどまって描き続けたというところが、やはりパリから切り離せない画家という事になるのでしょうが、場面的にはパリなのかブラジルなのか、麹町なのかは、わかりにくいところがありますよね。でも、乳白色が使われている作品は全てフジタ=パリのイメージとしてわたしたちに刷り込みをしてしまったフジタの力はやはり頭抜けたところがあります。今回の佐伯同様6枚の展示のうち、《カルポー公園》だけは。一時やめていた乳白色を復活させたころの作品で、他の手法、つまり普通の地を使った作品で、フジタのものかどうかはやはりわかりにくい。カルポー公園なるところが、どこにあるのかよくはわからないけど、パリにあったとしても、フジタなのか、パリなのかの判別はつかないなぁ。でもフジタ=としてもうひとつの確実なイメージである猫が魅力的な《猫のいる風景》は何度見ても魅力的な絵ですね。

・・というわけで。
前回のテーマ企画より、タイトルとやりたいことと、内容がミスマッチだったかな、と見た瞬間は思っていたのですけど、こうやって整理して(イヤ私的ニデスガ)書いてみると、やっぱり、良い企画だったことがしみじみわかりますね。うーん。ブリヂストンやるな。。

1章 パリ万博から第一次世界大戦まで 1900-1914
2章 黄金の1920年代と両大戦間期 1918-1945