2016年9月22日木曜日

有田焼創業400年記念 「明治有田ー超絶の美 万国博覧会の時代」開催中ですーー♪ Web(ブロガー)内覧会に行ってきましたー♪

江戸時代初期、佐賀県有田の地において日本で初めて磁器が作られ、国内のみならず、ヨーロッパ各国の王侯貴族を魅了する華やかで精緻な製品を数多く制作してきました。
明治時代に貿易が自由化されると、細やかな絵付けと精緻な技巧を凝らした有田磁器は1873年(明治6年)開催のウィーン万国博覧会をはじめ、世界各国で開催された博覧会を中心に絶大な人気を誇りました。
巨大な花瓶や再現不可能と言われる細密描写には当時の職人たちの超絶技巧が生み出したわざの美を感じることが「できます。
国内でも、近代日本初の迎賓施設である延遼館(えんりょうかん)、鹿鳴館(ろくめいかん)や明治九電など、国内外のお客様をもてなす場で用いられた有田洋食器は、饗宴に華を添えました。器の精巧さ、絵付けの細やかさ、いずれも当時の日本最高峰の技術が凝らされています。
また、日本で最初の会社組織として注目を集めた「香蘭社(こうらんしゃ)」の歴史、幻と言われた「精磁会社」の名品、明治後期に誕生した「深川製磁」など、明治有田の逸品とともに、本店により、有田の歩みを辿ることが出来るでしょう。明治時代、世界を魅了した華麗なる作品の数々から、明治有田の魅力をご紹介します。
美術館HPから

たぶん、最初に三井(記念美術館)が「超絶技巧!明治工芸の粋」で、、その言葉を使って以来(その前にどこかが使っていたらごめんなさい)、明治工芸品の展覧会となると「超絶技巧」が判で押したように使われる傾向に対して、少々違和感を感じていた私です。なので、Web 内覧会のお知らせを受け取り、久々参加しようと思い立たねば、行くことへのモチベーションが上がらなかったかも・・と思うと本当に招待していただき、ありがとうございます、と言いたい気持ちです。
何故って? だって、専門家の方々が一緒に作品を回る形式のギャラリートークをしてくださって、如何に「技術がすごいのか」という説明と同時に、違和感の元(たしかに技術はあるかもしれないけど、(日本人の心に訴えかける)美しさという意味ではイマイチなのよねー)という思いを少し共有してくださったおかげで、すっきりしたからなんですわ。

超絶技巧に関する野地分館長の素晴らしい比喩(後述)の後、説明してくださったのは
佐賀県立九州陶磁文化館館長の鈴田由紀夫氏
美術史家で本展のコーディネーターである森谷美保氏、(この方はこの展覧会の前まではそごう美術館で学芸員をされていた方とのこと)
さらには泉屋博古館の森下愛子学芸員も非常に控えめに住友春翠が香蘭社で購入した記録があることとコレクションについてちょっとだけお話しくださいました。

最初にみんな席について、専門家の方に概説をしていただいて、そのあとギャラリートークというリッチな方式は、私はここでは初めて。主催者のご厚意を感じます。もちろんそのご厚意の一環で、本展も
通常は写真撮影禁止のところ、特別に撮影の許可を頂いて、掲載していますので、展覧会での撮影はもちろんできませんし、この私の写真の質ではそうそうないでしょうが無断転載などなさらぬようお願いしておきます。

本展は2年かけて全国を八か所も巡回するとかで、ここ泉屋博古館のオリジナル展示ではないにしろ、そして感想文は書いたことないけど、実は中国古代の鏡の展覧会での解説が素晴らしく、爾来、何気にここ、アンケートなどの結果を重視して、以前よりパネルの字を大きくしてくれたりしてるところなども嬉しくて、小さいけれどもお気に入りの美術館でもあるので、それも応募するきっかけにもなりました。いつもありがとうございます。

開始時間までの間に鉛筆を借り、席を確保し、ロッカーに荷物を入れ、あれ?いただいた図録は違う展覧会か。。ならしまっちゃおう・・・なーんてもう一度ロッカーに荷物入れにいってツイートです。

これから久しぶりの あっと たぶんここで開催されるのも初めてなのかな?だって 有田焼四百年で盛り上げようという意欲むんむんだ!
(ここで開催される内覧会は初めてではありませんね、私が参加するのがはじめてなだけです。意欲むんむんなのは、六本木一丁目からのエスカレーターのひとつひとつに吊り広告がしてあったからですが)

構成は
1万国博覧会と有田
2「香蘭社」の分離と「精磁会社」の誕生
3華やかな明治有田のデザイン
4近代有田の発展
《特別展示》住友コレクションより


なんですが、構成に沿って説明された中で印象に残った点をいくつか。

1 有田焼と伊万里焼の違いって何?

ぼんやりと、現代と古いのの違い・・・って思ってはいたのですが、伊万里と古伊万里の違いは?と思うとわからなくなってしまっていたので、今回すっきりしました。
美術館HPの紹介文にあるように、あるいはタイトルが示す通り、有田焼は琳派に遅れること一年後の今年400年。すなわち、江戸時代初期に磁器の製作に成功した佐賀有田なわけですが、江戸時代は伊万里港から世界各地に輸出するため、出荷していたから伊万里焼きとして知られていた、そのうち古いのが古伊万里。
で、明治になったら鉄道が開通し、有田に駅ができた(はいはい、利用させていただきましたよ、むかーし、昔、有田焼買いに行くときに)のでそのころから有田焼と呼ぶように。しかも、それ以前は輸出はしていてもmade in Japanの意識や陶工が画家のように個人の名前を入れるという風習を持たなかったのに、明治になって自由を得た喜び(いや、自由って・・・まだ階級制度は結局残ってたし、それは少し言い過ぎじゃまいか?)と興奮、亜細亜の代表だとの意識が江戸時代とは違うとか。

2 巨大で緻密
  
【巨大】
伊万里焼きの時代も、注文主の要望に沿って金襴手のような既に派手な色と絵柄の皿やら巨大な壺を作り始めていたというのが私の認識です。けど、お話しをうかがう限り、明治政府が自ら日本の工芸を世界に売り込むべく、万国博覧会を積極的に利用し、そして、その意図を反映して、もてる技術をギリギリまで表現しようとしたのが有田焼となってからの明治の陶工の心意気なのでしょう。万博は今年でいえばオリンピックの体操のように世界にF難度、G難度を見せつける場、それに向かってたゆまぬ努力をする場、最初の野地分館長の言われたいわば白井健三の世界なのだ、とのお話の興奮が鈴田氏の解説にも引き継がれました。

実際、最初に解説のあった《染付蒔絵富士山御所車文大花瓶》の高さはなんと185センチ、通常磁器は高温焼成していくとガラス化していって、あまり背丈があるとぐじゃっと潰れるそうで、生乾きの時につないでいくような方式もとられるそう。
それにしても、185センチというのは限界の限界ぎりぎりだそうです。ガラスケースの中で台座の上に置かれているからというのももちろんありますが、解説される鈴田さんよりはるかに大きいのに圧倒されますね。鈴田さん曰く、この作品はウィーンの万博に名古屋城の金の鯱を取り囲むように二体展示されていたそうですが、その展示に欧州の人たちも驚いたのではないかと。
日本を代表するような絵柄をふんだんに使ったこの巨大な花瓶、富士山の染付の上に蒔絵で桜を描いている上に漆絵も使っているという事で、新しい表現を模索していたのではとの解説です。染付部分は富士山だけではないですが、同じように染付と金色に見える漆の作品は隣にもあり、絵柄としては確かに伝統的な伊万里の頃のスタイルとはちょっと違うように思えますね。

この頃に造られた大皿も巨大との事でしたが、何故か皿よりも壺やら花瓶に注目が集まったとの話で、やはり天井がものすごく高い欧州のお城等におあつらえ向きだったからではないかとのお話でしたね。日本は床の間に飾るから、そんなに大作は必要なかったとの説明。そもそも、今に至るまで、日本人は「ちっちゃな」「かわいい」作品に目を向ける傾向あるしねぇ。床の間が死語になろうとしていて、おうちが西洋化したとしてもね。
  
【緻密】
巨大に作られた作品だけでなく、その精巧ぶりの作例として、
① 《色絵透彫水禽文耳付三足花瓶》(辻勝蔵作)の細い三本足は、支えとなる受けの台座を作って焼成したと解説にもふれられていますが、今ではとてもできない技術だそうです。じっくりごらんあれ。

② 《色絵有職文耳付大壷》(香蘭社)と隣り合った《色絵鳳凰花唐草文透彫大香炉》(精磁会社)
右手前が 《色絵有職文耳付大壷》(香蘭社
4人でスタートした香蘭社とそこから独立した二人が興したという精磁会社、後者はより職人気質が強く、残念ながら、会社として永らえることもなかったそうですが、それだけ技術の投入に力が入っていたという事なのでしょう。とはいえ、この両作品とも実に細かい文様をこれでもかというくらい入れ込んでいて、まぁ、個人的な好みを言えばちょっとうんざり感もあるけれど、うんざりするくらいに感じる理由がこれでもかーと正確に入れられた文様やら透かしやらを入れ込んだことに起因するわけなので、逆に言えば、それだけ手の付けられないほどの技術を投入していたという事の裏返しなのかもしれませんね。。

《色絵鳳凰花唐草文透彫大香炉》(精磁会社)のほうが好き化も。
この会社のほうが長続きできなかったのは残念です。
実際最初の解説の際、紹介があった本展覧会の「論考集」(今回展覧会の図録は世界文化社から一般書籍として発売されています。)の中にも「奇矯さやグロテスクを狙ったような形態も、じつは技巧の冴えを全体的公正とは無関係にちりばめられた結果だった・・・・」という言葉が出てきて、溜飲を下げる結果に。えへん。(何を威張っているのか。。) その先には「超絶技巧」や「グロテスク」は日本のなかで自然発生的に生まれたものでなく、西洋への輸出を目論み、かなり意図的に創出されたものであった、という仮説について書かれていました。
まぁ、いろいろな解釈や仮説も成り立つので、もちろん絶対というわけではないし、その少々うんざりする・・・グロテスクな中にも微妙なバランスを保ちながら美しさを表現している、あるいは私たち好みといった方がいいのかな、作品も数多くこの展覧会でも出品されていますからご安心を。
《色絵褐地牡丹唐草鳥文コーヒーポット・碗・皿》
これらの香蘭社の作品なんかは伊万里焼きと言われていた時代にもありそうな図案ですよねぇ

③ 緻密に関して、なるほどな、と思ったのは《染付菊唐草文様食器》の解説。
これは蓋つきの鉢から花形の大皿までのセットで比較的、さっぱりしたシンプルな柄なのですが、すべて手描きなのに、一ミリのずれもなくまるでプリントしたように正確な絵付けであるとの解説。
確かに言われなければ、型でプリントしたような感じ・・・現代のものはそうしているようです、そりゃそうよね、大量に生産しなくては商売も成りたたないでしょうし。
それが、人の姿とかになると (例えば、例の万博に出した185センチの大壺の隣に展示された一
対の壺
のように)極端にヘタクソ(すみませぬ)になるというのに、当時の絵付師の細密画っぽいものに対する実力と、「絵心」というのか、二次元・三次元を表す「絵画」には大きな隔たりがあるという事を知らされているようで、次の下絵の説明に向かっての序章のような森谷さんの解説は大変面白うございました。


3 香蘭社・精磁会社と皇室御用達

会場の説明ボードに香蘭社や精磁会社が出来た経緯や年表が載っているので、ここで詳しく書くと日が暮れそうなので詳細は割愛しますが、そもそも今に続く香蘭社が出来たのもウィーン万博での成功がきっかけとなったようですが、その香蘭社が紆余曲折の後、ようやく洋食器のみならず和食器の御用達になった翌年に精磁会社が分離発足することになったとのこと。精磁会社の請け負った皇室向けの洋食器が展示されていますが、注目は《金彩パルメット桐文輪花大皿》。
鈴田さんのご説明では秀吉の使っていた今や日本国の政府が使っている五七の桐紋と西洋らしいパルメット、すなわちパーム椰子の絵柄が同じ皿の中に同居していること。香蘭社の《色絵有職文耳付大壷》ではイスラム柄が取り入れられていたけれど、ここではパルメット柄との和洋折衷。
図柄の面白さもありますが、さすがに宮中で使用してもらおうという皿ですから、金一色だし、柄もそんなにごてごてではなくて、むしろすっきりして美しい絵柄に思えます。
再び「論考集」をひもとくと、宮中に納品するに至る経緯や何が購入されていたかが書かれているのですが、やはり揃いで納品したとしても、大量生産できるわけでもないし、ただでさえ、焼成中や運送中の破損恐れなどから2割増しで製作していたみたいです。残った予備品を安価でもいいから引き取ってとお願いしていた様子が生々しく、なるほど、御用達といっても、汎用性ないわけで、経営が苦しくなったのもむべか
らぬだなーなどと変な方向に関心が行ってしまいます。
この皿の左隣にはいわゆる皇室の御紋である菊紋を配した皿も陳列されているので、その違いも含めてじっくり見ると楽しいかもしれません。
そういえば、少しだけ触れられていたと記憶するのですが、この展覧会、皿裏の銘の写真パネルがふんだんに使われています。今回時間の関係で、細かい説明もうかがえなかったし、じっくり見る時間もなかったけど、もう一度行って確かめたいなぁ。その説明も「論考集」には鈴田先生が詳しく書かれています。(→論考集は、美術館でしか買えないので、ご興味のある方はオススメです。)

4 温知図録と香蘭社に残る図案

そごう美術館の学芸員をされていたころ、企画されたオールドノリタケの展覧会で、ノリタケ社のみならず、香蘭社に残る図案を9年前に調査したことが、今回の企画のきっかっけになったと冒頭に説明をされていた森谷さんが、美術館の展示室ⅠとⅡをつなぐホールのケースの壁に掛かった図案とその前に飾られた大皿や花瓶と引き比べながら説明してくれました。
引き比べたといっても完全一致するものは殆どなく、制作年代もはっきりわからないこと、先ほどの壺の話ではないけど、人物がヘタクソだったりと、散々です。
これがほぼ完全一致と言われている《色絵牡丹唐草鳳凰文大花瓶》とその図案。
解説にも天地の赤い帯や文様がほぼ一致しているとありますが、
瞬間見た感じ似てるけど違うかなとも思いたくなるくらいのアレンジはされているわけです。
これを一致しているしないを調査されるのも大変でしょうね。

左のパネルはトーハクに残る温知図録の複製、
右の右側の図案の右下に深川栄左衛門渡しと書いてある。
更にこれの実物があったらおもしろかったのに。。。
一方で、明治政府が主導して描かれた図案集「温知図録」の絵は絵師が描いたようで、美しい。つまりはこういう事ではないかと。。即ち、香蘭社に残る図案(しかも、今でもクリアファイル状のものに入れて使っている!)は、あくまで陶工たちがおおよそのイメージをつかむための図案、「温知図録」は”規格”として全国に配るために作ったため、当代の絵師が描いた。有田あたりは、温知図録などなくとも、すでに様々な図案を持ちそれに基づいて製陶することがあったけど、大量生産で焼くだけのところ(どこなんだろう)にとっては、お手本が必要だった・・というようなお話だったと思うのです。もちろん、有田でも温知図録の図案を取り入れた例があり、というか、他の地に配布された図案にはない「深川栄左衛門渡(わたし)」と記載された図案があることから、図録を作った側との間に特別な関係があったのではないかという事も言われていた(ような。。。)いずれにしてもパネルにされている「温知図録」の同じ図案にはダレソレ渡しなどという文字は入ってはいないので、有田については少し扱いが違ったのであろうことは想像がされるという事で、そのあたり興味深いところです。
因みに温知図録の図案とほぼ同じように作られているのは《色
絵亀甲地羽根文瓶》。












5 遊び心

印象に残った最後は、遊び心。
ホールの図案と実物が一致する作品のもう一つは《色絵獅子牡丹文大皿》とその左に展示されている図案なんですが、この大皿には3頭の虎が描かれています。皿の方だけ見ているとなかなか見つからないかもしれないけれど、図案みてお皿みると・・・あら不思議、3頭見えてきませんか?

ま、これを遊び心とはいわないかもしれないけれど、今度は本当の遊び心を。。。
といっても、実際に触ったりできないのが残念でしたが、《色絵竹林文壷》の蓋のつまみ部分の虎の前足が抱えている球はくるくる回るんですって。でも、落ちないように設計されている。これこそ相当な技巧がいりそうなのに、ちゃんと使う人がにこっとすることまで計算してある。素晴らしい遊び心ではないかしら。

あぁ、まだ書き足りないこと、あげたい写真もあるけれど、これ以上時間かけてると、会期終わっちゃうなんてことになりかねないので、いったんここで終了。
もう一度見に行ったときに新たな感想などあれば、それは別途。



有田焼創業400年記念

明治有田超絶の美―万国博覧会の時代―

2016年9月24日(土) ~ 2016年12月4日(日) 
前期:9月24日(土)~10月30日(日)
後期:11月1日(火)~12月4日(日)
10:00-17:00 (入館は16:30まで)
休館日月曜日(ただし10月10日開館、翌11日休館)