2018年9月24日月曜日

【松潤がなりきる人だよ、松坂牛試食会もあるよ】~生誕200年記念~幕末の北方探検家 松浦武四郎展 ブロガー内覧会に行ってきた。

実は、入り口付近で地味な番宣的な紙を見つけてはいたんですが、まぁ始まる前だからさ、最初のツイートはここからよね。

これから、トークショーを経ての #ブロガー内覧会 #松浦武四郎展 #北方探検 #幕末 #いつもの静嘉堂とは毛色が違うテーマ
2018/09/24 14:52 @静嘉堂文庫美術館
開館時間中に始まったトークショーは
ナビゲーターは、いつものTAKさん、そして河野館長、今回ご担当の主任司書で普段は和漢書の整理の成澤さんによるものだけど、成澤さんの掴みが最高。
あんまりパッとしないようなイメージについてふられるなり、①2013年にすべての所蔵品が整理できた時に松浦武四郎展を開催し、人気があったので二回目を開催、(これはいいとして)②来年4月にNHKでドラマ化され、主役は嵐の松本潤さんと深田恭子さんです、と言い放った瞬間、会場から「松潤が?へーーー!!」という歓声が上がるという、美術館のトークイベントではお目に掛かれない会場の動揺と歓声にこっちが驚いてしまいましたよ。全く。
冒頭書いた通り、私は目ざとく見つけてましたよ。この紙を↓


来年の四月に放映、今もうロケに入ってるので、楽しみにしてお待ちください、等と聞くと、がぜん松浦武四郎が松潤にみえてくる?
そんな訳はないですが、その武四郎由来の作品並ぶ展覧会です。この方は蝦夷地と言われていた地を150年前に北海道(もとは、北加伊道 加伊とはアイヌ語で北のアイヌの人が住む大地という意味で)と命名。
実は渡航が大変厳しかった幕末の松前藩が統治する北海道から国後、択捉、樺太も含め13年間のうち6回渡り探査して詳細地図を作ったので実績を認められ明治新政府では開拓のトップとして任命された方で 顕彰碑があるそう。

この方、生まれは伊勢(松坂市)で、かの地には 記念館があり、家で保管してたものを展示 しており、全部重要文化財。 最近大判小判も引き取られたので金庫設置したばかり。
今回の展覧会中に、美術館としては斬新な企画、松坂牛の試食会もあるのは、先方からお話があったからだそうですよ。皆さん、先着100名ですから 奮ってどうぞ➡http://www.seikado.or.jp/exhibition/index.html

さて、前ふりはここまでとして、まずはいつもの通り、注意喚起です。
このブログで掲載した会場写真は美術館より特別に撮影の許可を頂いたものですので、期間中、会場内(会場の外の川喜田半泥子の焼き物は撮影OKです)での写真撮影はできませんのでご注意ください。

松潤以外の今回の展覧会の特徴を表現すると・・
1)今回の展覧会は武四郎を表現するキーワード3つのうち2つを中心に
  「蝦夷地を知る資料」と「武四郎のコレクション」に分かれる
2)武四郎を表現するキーワードとは
  「北方探検家」であり、
  71歳に没するまで日本全国を隈なく自分の脚で歩いた「旅の達人」
  そして「古物の大コレクター」
3)そのキーワードを支えたのは、彼を突き動かした
  根底にある「好奇心」
  思想(驚嘆すべき独自のヒューマニズム、田能村竹田に通じる)に支えられ
  た「行動力」と「人間性」


上記を補足するエピソードが面白いの。
小さい時から好奇心のなせる業なのか、ひとところに収まらない性なのか、最初に松坂を飛びだしたのは16歳。残念ながら 江戸で知人に見つかり連れ戻されたけど、翌年本格的に飛び出して10年。篆刻技術があるので、地元の庄屋等の有力者が必要としていた印の篆刻等をして泊まらせてもらったり、野宿したり、旅せざるを得ない性格と行動力。
山登りは好きだったようで 富士山には三度、なくなる一年前にも日帰りで登ったという。

北海道に行くことになった理由もまたユニーク。最初は朝鮮半島に行きたいと思うがいけず、長崎でロシアが蝦夷地に来て圧をかけていると聞き及び、日本の危機だと思い、自分の目でみたい、という事ですぐに向かった。でも、その頃本州とは違い、松前藩の取締は厳しく渡れず。翌年、商人手代に、身をやつし渡れた。2回めお医者さんの弟子として。そういうことをしないとまともに入れなかったのに二回も私費で渡っているそう。その成果として、残りの4回は幕府のお雇いで、(いつ覚えたのか?)アイヌ語を繰りアイヌの人たちと一緒に内陸部迄を調査、このため海外線沿いが中心の伊能忠敬、間宮林蔵とは違う北海道の詳細地図を作りあげた。
勿論、それを幕府に提出したことは勿論だけど、広く一般にも知らしめようとして
一般人に分かり易い紀行文を販売してたというから、驚き。

そして、その詳細地図が、会場のカーペットを一部剥がして、ほぼ原寸大で表現してくれてる。

この最高の仕事が大久保利通などに認められ、明治政府の開拓トップに雇われ、 土地の名前をつけた。
ふつうなら、そこから政府上層部への階段を昇り詰めるはずなのに、一年で辞めちゃう。彼は、松前藩時代からのアイヌに対する倭人同化作戦に反対して、松前藩はこんなことをしたという告発本を出し、勿論発禁になり、命も狙われ、弾圧方向になったそうで、明治政府になっても変わらぬ方針に反対し辞めたというわけ。
その後は一介のコレクター人生を歩む。 明治政府のやり方、アイヌ弾圧のやり方を馬鹿くさいと皮肉こめ、それを阻止できなかった自身への皮肉も含めたという説がある、という彼の毫、馬角(ばかく)はこれ


展示コレクションの特徴
良いものをコレクションするのがコレクターだけど、彼は好きな分野を集める人
静嘉堂にある900点は集めた中ではほんの数パーセント、ありとあらゆる分野が揃ってる、心に響いたもの。集めたものを分類、整理して後世に残すのは明治以降の博物館構想。明治の政府に知人がいるので、影響を与えた可能性も?
古銭を物凄い数を当時の大蔵省に寄贈してたり、他のコレクターとは
一線を画す。そのコレクションの一部は、河鍋暁斎に依頼して生前のうちに描いてもらった
涅槃図(模写)に出てくるのが面白い。



















さて、今回特別出品されている川喜田半泥子
 陶工として知られてる実業家(第百五銀行頭取)、7点ロビーに。

趣味の陶工としては、西(伊勢)の半泥子、東の魯山人、として言われていたのに、すっかり魯山人ばかりが取り上げられているが、作品の質としては、甲乙つけがたい。川喜田家は松坂の立派なおうち、おじいさんの石水という人と武四郎のパトロンが 幼馴染という関係。石水に送った手紙もとってあった。
実業家であることで、四代目社長小弥太と親しくなった。明治生命の株主同士という事で親しくなった。敗戦の色濃い昭和20年5月、小弥太が社員を連れて、半泥子の元でお茶会に参加する等岩崎家とも関係あり。松浦家とも関係があるという事で今回の特別出品になった。
弥之助と小弥太は美術品を集めてきたけど、美術品とは違うもの900点 。弥之助が購入したと思われるが、残念ながら確固とした証拠はない。弥之助の深川の別邸建築の大工頭だった柏木貨一郎(大変な目利きで国宝の源氏物語を所蔵していた)が二人の接点にいて人任せにしないで自分で購入を決める弥之助にアドバイスしこれなら購入しても良いと判断したと想像できる。

個々の作品での注目は(私基準)・・
最初に出てくる大首飾り
冒頭で紹介した満64歳の時の唯一実在する写真でも首からかけてるけれど、実物を五年前まで公表しななかった為、ずっと写真でしかわからなかった。なんだ、あんなところにあるんだと、言われたそう。縄文から近代、絹糸で留めた首飾りの重さは三キロ!
形、ぴったり合う例ないが、資料として、神社の神宝に似てるので、彼なりの根拠あったと思われる。ご自慢。一個ずつ材質、縄文からガラスについて上のパネルに説明あり。(文字小さくてわかりませんが)國學院大の方が整理してくれたそう。



そして床の地図の先にある翡翠の首飾り

今はもう絶対に手に入らない純粋な翡翠だそうです。実際透明感や色が濁っていない感じで美しいです。

上述の涅槃図とそこに登場する古物

あと、 本居宣長に影響された鈴好きがわかる説明とか、鈴とか。

とにかく、気になったものを集め、それを几帳面に記録し、更にそれを自分のものにだけにしないで、常に「公にする」姿勢が素晴らしいのですが、なぜか、最後の一畳敷に集めた古材で亡骸を焼いて欲しいというのだけ、コレクションしたゴッホを棺に入れて焼いて欲しいといって 非難をあびた実業家を思い出して、なんかしっくりこなかったなぁ。(歳をとると皆変わってしまうのかなぁ)

まあ実際にはご本人の遺志とは関係なくICU(国際基督教大学)にめでたく保管され、学園祭の時には公開される(もうすぐ)だそうですが。。

~生誕200年記念~
幕末の北方探検家 
松浦武四郎展
2018 9月24日(月・祝日)~12月9日(日)
休館日:月曜日 ただし9月24日、10月8日は開館。10月9日(火)休館
10:00~16:30(入館は16時まで)

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