2015年3月21日土曜日

金儲けは悪いことではないと思うの。文化を育てるのに使ってくれるなら・・・ボッティチェリとルネッサンス@Bunkamura ザ・ミュージアム

ずいぶん前に青い日記帳のTAKさんのつぶやきで、なんでも前売り券にチケットホルダー付きの種類があるという事を見た私は、それをゲットするためにローチケで前売りを買っておいたんですね、いつもBunkamuraは現地で買う以外はネットで予約してファミマのちょっとめんどい前売り券売機にアクセスしなきゃならなかったので、気楽に買えたのがGJでしたんで。。
今回は初日の夕方突撃しました。人の入りはそこそこ。入場したらまずはチケットホルダー交換券をギフトショップで渡して、ニッコリ

 
それはさておき、今回もHPの解説と見どころを復習しながら感想を。(図版はHPより)
15世紀、花の都フィレンツェでは、銀行家でもあったメディチ家の支援を受け、芸術家たちが数々の傑作を生み出しました。ルネサンス期の芸術の誕生には、地中海貿易と金融業によって財を成したフィレンツェおよびメディチ家の資金力が不可欠でした。メディチ家の寵愛を受けたボッティチェリ(1445-1510)に代表されるフィレンツェ・ルネサンスは、フィレンツェ金融業の繁栄が生み出した代表的な文化遺産といえましょう。
 本展では、ヨーロッパ全土の貿易とビジネスを支配し、ルネサンスの原動力となった銀行・金融業と、近代のメセナ活動の誕生を、ボッティチェリの名品の数々を中心に、ルネサンス期を代表する芸術家たちによる絵画・彫刻・版画や、時代背景を物語る書籍・資料など約80点によって、浮き彫りにします。
【美術館HPより】

序章 富の源泉:フィオリーノ金貨


≪フィオリーノ金貨≫ 1252-1303年 金、直径2cm、グラッシーナ(フィレンツェ)、アルベルト・ブルスキ・コレクション、Grassina(Florence), Collezione Alberto Bruschi

表にフィレンツェの百合の紋章、裏に守護聖人洗礼者聖ヨハネを刻印したフィオリーノ金貨は1252年に初めて鋳造され、中世から初期ルネサンス時代にかけて国際通貨となります。町の名にちなんで名づけられたこの金貨がフィレンツェをヨーロッパ経済の中心へと押し上げ、ひいてはルネサンスの繁栄を生み出したのです


いや、こうやって公式HPの写真なんかを拝見しますとかなり精巧にできているということがわかるんですが、何せ13世紀とか14世紀、鋳造技術といっても今ほど精巧ではない頃の加工しやすいとはいえ24金のこういった美しいコインを東京で見られる訳ですから、ありがたや。なんでも、ちゃんとした出来かどうかを歯で噛んで確認したとか。
なるほど、少しひしゃげているのは、そのせい?かしらん。
それは兎も角、何故このプロローグが登場するかといえば、ヴァチカンがさほど遠くないフィレンツェでは、キリスト教の教義に反する・・とまでは行かないまでも、眉を顰められるような銀行業等の金融業が発達し、この金貨が国際通貨となる事でメディチ家のように絵画・芸術を庇護してくれる銀行家がより富を得るのであるという証左である事を後の章でしみじみと感じさせられる訳なんですよね。

 

ところで、ボッティチェリ。本当の名前(アレッサンドロ・フィリペーピ)ではなく、お兄さんにつけられた「小さな樽」という綽名から由来したとか、ずんぐりした人だったんでしょうが、なぜ兄のあだ名が弟に?1445年に皮なめし職人の息子としてフィレンツェに生まれ、1464~67年までフィリポ・リッピの工房で修行、ヴェロキオの工房に出入り後1472年に公的(商業裁判所)仕事を手がけ、1472年には画家組合に親方として加わったそうです。確か、ラファエロだったかしらね、同じように二十代の若さで親方というステータスになったのは。同じように早くから頭角を現していたということですね。
その後のメディチ家の庇護のもとの活躍や、メディチ家没落後の修道士サヴォナローラの禁欲的考えへの傾倒による神秘主義的な傾向とその失脚に伴って注文もなくなり、ひっそりと亡くなった人生については、昨年秋の「ウフィツィ美術館展」@東京都美術館 でもずいぶんと学んだ気が。
それはともかく、金貨に続いて、第一章が始まります。

第1章 ボッティチェリの時代のフィレンツェ
ボッティチェリの《ケルビムを伴う聖母子》の額縁に貨幣の鋳造や銀行業、商人の活動を監督した両替商組合の象徴である金貨があしらわれているように、彼の時代のフィレンツェでは芸術と金融、商業活動は密に関わっていました。ここでは絵画だけでなく、当時の経済活動をうかがわせる資料や商人の仕事道具を紹介します。
サンドロ・ボッティチェリ《ケルビムを伴う聖母子) 
1470年頃、テンペラ・板、120×66cm
フィレンツェ、ウフィツィ美術館
© Gabinetto Fotografico della S.S.P.S.A.E e per il Polo Museale della città di Firenze
 
ケルビムとは位の高い天使のこと。額縁に貨幣の鋳造や銀行業、商人の活動を監督した両替商組合の象徴である金貨があしらわれています。
 
 
さて、この章には早速、プロローグのあった意味を思い起こさせられます。

そう、ボッティチェリ《ケルビムを伴う聖母子》の額縁部分に奥行を持たせる層があって、その赤地の層には柄こそ描いてないですが、金色のコイン状の○が三列装飾として並べられているんですね。これが両替商組合の発注ではないかと思われている理由だそうですが、単なる柄。。。とも見えなくはないですけどね。。。きっと決定的な何か(注文書とか、管理番号とかの記録?)があるのではないかと思われます。
。。にしてもキリストの胸のあたりの花のようなヴェール状の羽織ものは繊細で美しいのに、何故顔は大人顔で怖いんだろう。。ま、他の人のも含めてたいていはそうですけどね。


マリヌス・ファン・レイメルスヴァーレに基づく模写 《高利貸し》
1540年頃、油彩・板、100×76cm
フィレンツェ、スティッベルト博物館
© Archivio fotografico Museo Stibbert, Firenze

15世紀のキリスト教世界では、富を循環させる銀行業は金利で儲ける高利貸しと明確に区別され、近代金融業の礎となりました。フランドルでは、この図像が人気を博し、多くのバりエーションが制作されました。
 
 
 
 
多くのバリエーション。。えぇえぇ、確かにこの手の構図の《両替商とその妻》の絵が国立新美術館でやっている『ルーブル美術館展―日常を描く―風俗画に見るヨーロッパ絵画の真髄』にもありましたよねぇ。皆、いかにもカネカネカネ・・という表情でアクドイ感じに描かれるという気の毒なパターンは、職業の貴賤(銀行業は経済を循環させるから良いが、高利貸しは金利をとりたてるから悪)に関してのキリスト教的道徳観(金利を取るのは悪)を広める役割を果たしていたのでしょうが、それにしても、悪どそうな顔!

でも、お金を持っている彼らにしてみれば、その富を象徴する毛皮のガウンを着て、宝飾品を身に着けていたわけですから、世間の風評なんのそのだったのかもしれませんがね。
ちょっと面白かったのは商業活動とメディチ家の紋章というタイトルではあるものの、算術と幾何の問題集があって 1000引く650は350、更にそこから100を引くと250なんていう縦書きの計算式が描いてある本があったことかな
 
次に、第二章の華とも言える、フランチェスコ・ボッティチーニの旅するトビウスと大天使ラファエルの絵が続きます。

 


 


 
 

第2章 旅と交易:拡大する世界

ヨーロッパ各地にフィレンツェの銀行の支店が開設され、旅行者や商人は現金に代わり信用状を携行して長旅に出られるようになります。交易は活発化し、フィレンツェにはヨーロッパだけでなく遠く中東からの商品も行き交いました。ここでは、航海図や、旅の道具、商品を輸送する船旅の様子を伝える絵画などを紹介します。

フランチェスコ・ボッティチーニ 《大天使ラファエルとトビアス》
1485年頃、テンペラ・板、156×89cm
フィレンツェ文化財特別監督局 

©Gabinetto Fotografico della S.S.P.S.A.E e per il Polo Museale della città di Firenze
病に伏せる父親が、貸したお金の回収のため息子トビアスを旅に出します。その無事を祈る両親の願いを聞き入れ、大天使ラファエルが旅に同行したという旧約聖書外典『トビト記』の物語。交易の拡大で、旅に出る機会が多くなったこの時代に好まれて描かれました。
トビアスは籠に入った魚を持っていますが、これは旅の途中でラファエルの導きによって夕暮れのティグリス河で大きな魚を獲り、その胆嚢で父の病を治すシンボルですね。その他にも牧羊犬とか石ころがごろごろ転がる山の道が描かれていて、この時代十代前半で危険を伴う長旅に出る少年達の艱難を想って注文されたと思うとこの時代の商家の家族のあり方を想像してしまいますよね。
 
今回の目玉のフレスコ画のとは異なる油彩の《受胎告知》が隣に掛かっていたのですが、その背景にも何気にトビアスと大天使ラファエロが遠くの道からこちら側に向かってくるとの構図で描かれていました。今まで気にしなかったけど、この時代の絵画を見るときに背景にこのモチーフが描かれていたら、注文主が旅立たせた息子の安否を気遣って描かせたのかな?と想像できるということですね。鑑賞する楽しみが増えましたね。
ところで、こちらの《受胎告知》、19世紀のラファエル前派の初期パトロンのウィリアム・グラハムから、エドワード・バーン・ジョーンズに贈呈されたという解説が入ってました。今は個人蔵となっているわけですが、バーン・ジョーンズの子孫なのかなぁ。。まぁ、ちょっとマリア様の表情はお疲れ気味のような絵ですが、いずれにしてもバーン・ジョーンズが同じ絵を眺めていたこともあるのねー、と思うと不思議な感覚になりますよね。

第3章 富めるフィレンツェ

13世紀以降、ヨーロッパではたびたび奢侈しゃし禁止令という贅沢を戒める条例が発せられます。
衣類や宝飾品のみならず、饗宴や婚礼、葬儀での節制を求める条例でした。金融、商業で富めるフィレンツェでも例外ではありませんでした。この章では、禁止の対象となった壮麗な婚礼や葬儀の様子を表した作品を展示します。
フラ・アンジェリコ 《聖母マリアの結婚》
1432-1435年、テンペラ・板、19×51.5cm、フィレンツェ、サン・マルコ博物館
©Gabinetto Fotografico della S.S.P.S.A.E e per il Polo Museale della città di Firenze
フラ・アンジェリコの代表作《聖母戴冠》(ウフィツィ美術館)のプレデッラ(祭壇画下部の小壁板絵)のひとつ。

この章は水浴を覗き見した長老たちに脅されて死罪になりかかるスザンナのお話を絵にした《スザンナの物語》等結婚祝いに使われたと思しき壁掛け鏡とかの展示。   
出産盆はこの時代の出産が大変な労苦であり、その苦労を乗り越えた産後の女性に対する周りの思いやりが感じられますねえ。

第4章 フィレンツェにおける愛と結婚

フィレンツェの商人や銀行家の寝室は、結婚生活・出産・死が展開されるプライベートな空間でした。寝室の調度のうちカッソーネ(長持)と呼ばれる婚礼家具や宗教画、出産盆(出産祝いを載せる盆)には、夫婦の社会的役割を示す図像が選ばれ、フィレンツェ・ルネサンスの社会が依って立つ価値観や美徳を伝えてくれます。
スケッジャ《スザンナの物語》
1450年頃、テンペラ・板、41×127.5cm、フィレンツェ、ダヴァンツァーティ宮殿博物館
©Gabinetto Fotografico della S.S.P.S.A.E e per il Polo Museale della città di Firenze
旧約聖書外典で語られる敬虔で貞淑な妻スザンナの物語が、美徳を代表するものとして婚礼家具に描かれました。背景には当時の邸宅の様子が描かれています

 

第5章 銀行家と芸術家

ルネサンス期のフィレンツェの名作の数々はメディチ家をはじめとする銀行家一族の注文によって制作されました。メディチ家から絶大な信頼を得ていたボッティチェリは、彼らの要望を満たす作品を生み出す理想的な画家でした。この章では、銀行家による注文作品とともに彼らの豪華な生活を偲ばせる品々を紹介します。

ウフィッツィから来た《開廊の聖母》は優美な作品。この写真では額の頭頂部(チマーザ)に鳩が描かれているなんてわからないけど、正面から羽根を広げて、この絵を包んでいる感じでありまして、美しいとの印象でした。
ワシントン・ナショナルギャラリーの《聖母子と二人の天使は》 ボッティチェリ帰属とあるので、真贋はわからないわけですが、その聖母の赤い宝飾品で留めたマントのような衣がその気品の高さと相まって美しい作品です。天使も赤っぽいガウン着ちゃって黒っぽい羽根なのが気になりましたが。


さて目玉の《受胎告知》のフレスコ。 大天使ガブリエルが空から飛んできたように左空中に浮遊して、マリアが右でははーっといわんばかりにひれ伏そうとしている。同じ横に長く展開しているダヴィンチのもう既に貫禄があるマリアに向かい片膝落として告知するガブリエルという構図の《受胎告知》に比べて、ガブリエル――神の使い、マリア――聖母になる前の人間といった印象が強いのは、天使と聖母の距離が結構離れているからそういう印象になるのかなぁ。。でもこの構図、個人的には好きだなぁ。
HPの担当学芸員さんの解説を読むと、やっぱり、ガブリエルに主役の座を敢えて渡しているようですね。。ふんふん。意図通りの印象を持ってしまったわけで、ボッティチェリにやられたわけですね。



 サンドロ・ボッティチェリ《受胎告知》
1481年、フレスコ、243×555cm フィレンツェ、ウフィツィ美術館
©Gabinetto Fotografico della S.S.P.S.A.E e per il Polo Museale della città di Firenze


サンドロ・ボッティチェリ 《聖母子と洗礼者聖ヨハネ》
1477-1480年頃、テンペラ・板、直径96.5cm
ピアチェンツァ市立博物館
©Musei civici di Palazzo Farnese - foto Carlo Pagani

*3月21日―5月6日の期間限定出品
その脇に、今回期間限定で公開のテンペラ画《聖母子と洗礼者聖ヨハネ》の丸い板がかかっています。
確かキリストは厩の飼葉桶に寝かされたと聖書の記述とは違い、身体を包んだ布の下には括った柴のように堅そうに積んだ薔薇の上に寝かされています。バラ⇒棘のインスピレーションで、これから起きる苦難の道―茨の道というボッティチェリのアレンジでしょうかねぇ。この絵は 背景にも薔薇というより椿にも見えてしまう生垣が描かれ外界との遮断をしているようでまるで窓のある回廊のように薔薇の生垣を置いている構図はインパクトがありますね。美しい絵画でした。


絵画作品ではないけど、途中のケースに《三声と四声のための歌曲集》がありましたが、とても美しい本です。


この章の最後に、ウフィツィにある名作《ヴィーナスの誕生》の貝の上に立っているヴィーナスの下絵のようなのがありました。黒地の背景にヴィーナスだけなので、ホンモノよりも裸体が強調されたような印象になります。解説には《ヴィーナスの誕生》は(後にボッティチェリが傾倒することになる「正統な信仰」を説く修道士サヴォナローラから見れば享楽的な社会を体現するようなとんでもない絵となるわけですが、そのような悦楽的な絵画や文化を庇護してきたロレンツォ・メディチのような金持ちがいてこその華やかな文化の発展でもあったわけで、もし「正統な信仰」だけの世界なら、今でも西洋文化は受胎告知と聖母子だらけに囲まれていた事になり、それはツマラナイナ。。。ま、そんなことなくてよかった訳です。この展覧会の副題が「フィレンツェの富と美―Money and Beauty」となっている事を改めて思い出させてもらえる作品でした。
 

第6章 メディチ家の凋落とボッティチェリの変容


修道女プラウティッラ・ネッリ(帰属) 《聖人としてのジロラモ・サヴォナローラ》
1550年頃、油彩・キャンヴァス、61×45.7cm、個人蔵
メディチ銀行の衰退とともにフィレンツェは危機の時代を迎えます。この頃、台頭した修道士サヴォナローラが行った「虚栄の焼却」では贅沢品や宗教上好ましくない芸術作品が燃やされます。ボッティチェリの晩年の作品はそうした時代の空気を反映しています


そのメディチ家が没落し、「虚栄の焼却」を目指したサヴォナローラもいずれ処刑されてしまうという歴史を見れば、一度林檎をかじってしまったアダムとイブの子孫が「正統な信仰」を保ち続けることができず、美しいものを求め続ける事はそれが堕落であったとしても運命なんだなぁーと思わざるを得ない事をこの章で学ぶわけですねー。いや、しかし、このサヴォナローラはきっと本人に似てるんだろうけど、この鷲鼻の横顔からは、一切の奢侈は認めないぞ!的な強い意志と、融通なんて言う言葉は彼の辞書になさそうだなぁと思わされるのはなんでなんでしょうかねー。。
 
 
ボッティチェリとルネッサンス
フィレンツェの富と美
 
Bunkamuraザ・ミュージアム
2015/3/21(土・祝)-6/28(日) 
*4/13(月)、4/20(月)のみ休館
 


2015年3月19日木曜日

没後50年ーー小杉放菴ー〈東洋〉への愛ー展@出光美術館 放菴はおおらかで巧いなー


i会期も中盤に入ってきたので、慌てていってきましたー。美術館のHPの解説(斜め灰色文字)を参照しながら、感想文をば・・・
 
放菴作品の展示は、当館では2009年2月に開催した「放菴と大観-響きあう技とこころ-」展以降、6年ぶりの公開となります。とくに今回は、東京国立近代美術館、小杉放菴記念日光美術館、栃木県立美術館、泉屋博古館分館ほかのご協力によって、放菴作品の代表作が集います。約90件の作品で放菴の魅力に迫る展覧会。この機会をどうぞお見逃しなく。
展覧会の構成
  1. 第1章
  2. 第2章
  3. 第3章
  4. 第4章
  5. 第5章
  6. 第6章
  7. 第7章
  8. 第8章
  9. 第9章
各章の解説
第1章
http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/exhibition/present/images/highligh_ph001.jpg
放庵画冊より 明治時代 小杉放菴 出光美術館蔵
小杉放菴(こすぎほうあん 1881~1964)は、明治14年(1881)に日光二荒山(ふたらさん)神社の神官・富三郎(蘇翁)の末息子として生まれます。国学者で文化人であった父に従って、15歳で日光在住の洋画家・五百城文哉(いおきぶんさい)の内弟子となります。高橋由一(たかはしゆいち)の門人で実力者だった文哉に可愛がられてデッサンを学びますが、青雲の志を抑えきれなくなり、18歳で上京、小山正太郎の画塾・不同舎に入ります。勇壮な外貌と、〈未醒(みせい)〉と号するほどの酒好きで元気者の放菴。小山に見込まれて、日露戦争では国木田独歩(くにきだどっぽ)の『戦事画報』(旧『近事画報』)の従軍記者として戦地へ赴き、挿絵で悲惨さを訴えました。洋画家の美術団体である太平洋画会に出品する傍ら、田端の自宅近くに倶楽部を創り、画家仲間とテニスを楽しむうちに、その仲間たちとの間で美術同人誌も生まれました。同人誌に寄せた漫画には、現実社会を直視する繊細な優しさが溢れています。田端に住んだ芥川龍之介も、外貌と内面の差が激しい放菴を、愛おしそうに“未醒蛮民(ばんみん)”と呼びました。
先ず入って最初の章のタイトルに「蛮民」とあるので、野蛮な民って言われいてたの?と一瞬戸惑い、更に、宮司の子供であるからには野蛮からは程遠いだろうーと読み進んでみたら、なるほど愛おしさによる命名だったのですねー、しかも芥川龍之介による命名かぁー。。
それはともかく・・・
敬愛していたという高橋由一を師にもつ五百城文哉と放菴の《日光東照宮》の絵が並ぶ最初のケース。
放菴のそれには、師である文哉の画風をひたすら模倣しているといいつつも、師よりコントラストが強調され白馬会系の影響がある早熟な手の跡・・というような解説がついています。確かにフォンタネージの影響を受けたという大きくて堂々とした師の絵に比べると号数の小さい絵ながら、遠景の木々を薄紫にして朝もやに煙るような森閑とした空気を出している放菴の方が迫力がありますねぇ。また、確かに黒田清輝に代表される白馬会の画風を取り込んでいるといわれればそうなんですけど、私はむしろ、後に影響を受けるというシャバンヌと似た空気を感じましたねぇ・。。
自画像に続いて次のケースに飾られている《婦人立像》、全体的なイメージはちょっとナビ派のような印象。


第2章
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水郷 小杉放菴 明治44年(1911) 東京国立近代美術館蔵
明治40年(1907)から文部省主催の美術展覧会・文展が開催されるようになると、放菴は徐々に頭角を表し、30歳頃には「水郷」と「豆の秋」と二年連続で最高賞の二等賞を受賞します。洋画界の将来を嘱望された放菴は、翌年の大正2年(1913)には銀行家・渡辺六郎の後援を得て渡欧し、当時世界的に流行したフランスの壁画家ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(1828~98)に憧れて、パリを拠点に半年間、ヨーロッパ各地の壁画や美術館を見てまわります。しかし、ヨーロッパの伝統の重みに圧しつぶされそうになり、パリで江戸時代の文人画家・池大雅(いけのたいが 1723~76)の画帖「十便帖」の複製に“帰り行くべき道”を示されて、帰国後は日本画に傾倒してゆくことになります。ここでは、文展入賞、留学中、帰国後の油彩画に、隈取や筆触といった日本画特有の味わいが表れてくる過程を追います。
《水郷》は二等賞という事ですが、旨いけど、題材のせいか楽しくないかも。でも洋行中の《スペイングラナダ娘》は、マティスの影響受けてるなー、と思ったりできるのが楽しい絵です。構図はシャヴァンヌだというのだけど。。そうなのかー。。
この留学中と帰国後の大正時代は色々な事に挑戦している感じ。《初夏山雨》なぞ、なんかエッチングでみられるような細かい点と奥行のあるふしーぎな画面で目を引き付けられます。解説によれば東洋画で常套的に使われる済による黒い点で苔を表すだけではなく、白い点を加えることで雨に濡れた輝く山を表現できているとの事だけど、何しろえぐるような線なぞは当時にしてはアヴァンギャルドだったのではないかと思うのです。


第3章
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湧水(いずみ) 小杉放菴 大正14年(1925) 出光美術館蔵
東洋色が濃くなって帰国した放菴を支えたのは横山大観(よこやまたいかん)でした。大観は大正2年(1913)、岡倉天心(おかくらてんしん)亡き後の日本美術院に、放菴を洋画部門のリーダーとして迎えて再興し、二人は意気投合して国際社会に恥じない新しい絵画を創り出そうと情熱を傾けます。大正9年(1920)に、院から洋画同人たちと共に脱退すると、洋画家たちと創設した春陽会に加わり、水墨の素描や東洋趣味の洋画を出品して注目を浴びました。そして、大正末期には壁画の依頼にも意欲的に応え、洋画家としての地位が不動のものになりました。東京大学大講堂(通称安田講堂)の舞台を飾る壁画では、ソルボンヌ大学大講堂のシャヴァンヌの壁画を念頭におきながら、裸体のミューズたちを天平風俗の乙女に変え、東洋的な情緒を湛えた作風へと昇華させています。日本画を思わせる色彩や筆触が、油彩画に淡白な柔らかさを与え、東西や時代を超えた神話世界へと誘います。
実際の安田講堂の壁画は持ってくることができないので、下絵が展示されているわけですが、シャヴァンヌを意識した人の動きとか構図なんだそうです。でも日本的というのかふくよかな東洋的な人たちが並んでいる壁画写真や《湧水(いずみ)》を見ると、よく咀嚼しているという印象を受けます。つまり自分の画風としているような感じ。
第4章
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瀟湘夜雨 小杉放菴 昭和時代 出光美術館蔵
池大雅の「十便帖」の複製に、放菴は思いがけず墨線の力を見出します。放菴の留学した1913年の西欧においては、ピカソやマティス、カンディンスキーなどが絵画のリアリズムを否定し、新たな空間原理を創り出そうとしていました。しかし、画面上に空間を自由自在に作り出す大雅の線は、こうした西洋の動向に先駆けた新しい線と感じられたのです。

「大雅堂の絵は、さながらの音楽、最も自然を得て、最も装飾的、暖かく賑やかに、しかしながら静かなる世界、其の基調は一に彼の太く緩く引かれたる線條に在る。」〔小杉放菴「線」、大正14年(1925)〕

帰国後の十年間、大雅研究に熱をあげる一方、中国旅行をし、宋元画など中国の古画学習にも没頭してゆきました。ここでは、江戸時代の文人画と放菴の南画の競演により、放菴が憧れた文人世界を検証します。
この章に入ると、池大雅と放菴の同じ画題《洞庭湖秋月》とか《瀟湘夜雨》を隣り合わせて展示。浦上玉堂と同じ画題もあり。そうやってみると、先人にかなり軍配があがってしまうと見えるのは私の偏見かなぁ。。放菴の《瀟湘夜雨》は、大雅にひけをとらないし、比較画題のなかった《渓雲》は良いと思ったわけですが。
《大雅堂瀟湘八景扇面小皿》は元絵が池大雅、染付が放菴、窯は板谷波山というゴージャスな組み合わせ、光悦・宗達や尾形兄弟のコラボを想起させる組み合わせですね。
第5章
http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/exhibition/present/images/highligh_ph005.jpg
帰院 小杉放菴 大正15年(1926) 出光美術館蔵
大正期には、大観らの影響もあり、日本画の画材に関心が高まります。洋画の主題を屏風、金箔地、絵巻に、南画の主題を油彩画へと、様々な媒体に試して好評を得ました。さらに大正末期に、福井の紙漉き職人・岩野平三郎が、平安時代に姿を消した麻紙(まし)の復元に成功すると、放菴は一種変わった墨の風合いをみせる麻紙の虜になりました。そして昭和4年(1929)の中国旅行の時、その餞別として洋画家の倉田白羊(放居士 ほうこじ)から画号の一字を奪い取って、〈放菴〉と改号します。

「人或いはこれを転向という。自分はずっと続いた一本道だと思う」〔小杉放菴 「半世紀以上」、昭和35年(1960)〕

世間から“転向”、あるいは“東洋回帰”と見られ、放菴の描く南画は、構図が勝ちすぎていて、文人の精神性がないという批判もありました。しかし、放菴は、自らの漢学の教養をおしつける南画ではなく、文人の楽しみを鑑賞者と共有することを第一とし、筆の修練を重ねて、洋画と日本画に新しい風を送り続けようとしたのです。
麻紙に拘る放菴という説明を見て、そういえば、竹内栖鳳も同じ岩野平三郎さんのところで「栖鳳紙」と言われる紙を作らせてたんじゃなかったっけ?と思い至り。。。確か横山大観も同じ紙職人さんを使っていた。。
放菴が出来上がってくる麻紙を使う度に色々コメントして100通程手紙を送り、それに応えたとの解説を読んで、いやいや、放菴ばかりではなく、後世に名前を残す大画家たちの細かいリクエストに応えていた岩野平三郎さん、凄い!っと、そっちに頭がいってしまいましたよ。ほんと。
この章の最初の絵は《ブルターニュ風景》等のシャヴァンヌの影響大と一見してわかるような絵が並んでますが、その中でも《黄初平》という絵が気に入っちゃいました。背景に金箔を使い、道化のように踊るような人物のイメージは西洋風でもあり、画題でもある黄初平の逸話(失踪していた羊飼いが仙人になり石を鞭打つと羊に変身する・・・ってなかなかの話ですが。)は中国のもの、と西洋、東洋入り乱れているものの、そこでうまーくバランスのとれた不思議な絵の魅力。
《帰院》《釣秋》といった絵も構図や金泥使いが素晴らしくて良いなー。
《新緑写意》の解説ではマティスのフォーブ時代の絵に似ているとか書いてあったけど、それには疑問符ありですが。。笑
第6章
http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/exhibition/present/images/highligh_ph006.jpg
春風有詩 昭和3年(1928) 小杉放菴記念日光美術館蔵
昭和に入って放菴の主要なテーマとなったのが、東洋の神話や古典の世界です。幼少の頃から父・蘇翁や師・文哉に従って漢詩の素読を習ったことの上に、漢学の碩学・公田連太郎(きみだれんたろう)との出会いが、放菴の思想をますます東洋に傾かせることになりました。放菴は、昭和2年(1927)から田端の自宅で友人を集めて、毎週、公田から漢学の講義を聴く「老荘会」を主催します。中国古典の思想は放菴の生き方にも多大な影響を与え、昭和9年(1934)から信州・妙高高原の別荘で、自然の風物に囲まれながら作画する生活を楽しむようになりました。放菴の描く荘子や李白は、別荘前に据えられた“高石”の上で妙高山を眺めて暮らす放菴の分身であり、明るく大地を踏みならす神々は放菴が遊んだ日光の大自然の象徴なのです。現実と離れて遊んでいたいと願った放菴の心が伝わってきます。
確か以前も見たような気がする《酔李白》とか《荘子》も衣の白とそれ以外の抑えた色との対比も含めて、なんというのか、泰然自若の高士の姿を良く表していていいなーとおもいましたよ。解説では放菴自身だというのだけど。
更には《さんたくろうす》、西洋の屋根と松林の中にいるサンタがミスマッチ感なく同居する姿は彼の絵の特徴かもしれませんね。
このコーナーの最後には前回は第一室の一段下がったところに掛かっていた(と記憶)笠木シヅ子がモデルという《天のうづめの命》もかかっています。この絵はポスターやチケットの絵柄にもなっていますよね。
前回の展覧会の時には目に留まっても気にならなかった解説はこの絵が日章丸二世の為に描かれ、船長室に掛かっていたと言う事。出光佐三を描いた『海賊と呼ばれた男』の影響で今回はすっかりあまたに入りました。
《洞裡長春》に出てくる梅の香にうっとりする唐子といいふくよかで、優しさを感じる人物の描き方は抜群ですねぇ。。
第7章
http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/exhibition/present/images/highligh_ph007.jpg
金太郎遊行 小杉放菴 昭和17年(1942) 泉屋博古館分館蔵
放菴の長い画業人生の中で、人と寄り添う牛はとりわけ好んで描かれたモチーフです。放菴が初めて描いた南画の画帖「南嶋帖(なんとうじょう)」にも、沖縄で牛の手綱を曳く牧童が繰り返し登場しますが、その構図は後年、禅の悟りの段階を説いた中国の伝統的な画題「十牛図(じゅうぎゅうず)」を思わせる画へと展開してゆきます。放菴の眼には、素朴な牛と牧童の日常風景が、「十牛図」や「出関老子(しゅっかんろうし)」といった中国古典文学のテーマと重なって映っていたようです。放菴が孫をモデルに描いた、悠々と熊に跨った金太郎の勇姿も、超然と牛の背に載った老子の分身といえましょう。ここでは、「十牛図」をテーマに、融通無碍に姿を変える物語世界をご紹介いたします。
放菴は金時を随分描いているけれど、本来雷神の子という位置づけで赤い身体を描くのが習わしだったところ、肌色に書いているのはお孫さんを模して書いているからと。放菴という人の人柄も伝わってくるようで、微笑ましい。


第8章
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山水八種 小杉放菴 昭和8年(1933) 出光美術館蔵 〈場面替あり〉
放菴と出光美術館初代館長・出光佐三との出会いは、『景勝の九州』(昭和5年(1927)刊)という一冊の本がきっかけでした。『景勝の九州』は、放菴が九州電力の招待で九州をまわったときのスケッチ画冊「鎮西画冊(ちんぜいがさつ)」をまとめた旅行記ですが、佐三はその挿絵を見ているうちに、自分が惚れ込んだ博多の禅僧・仙厓(せんがい)と相通じるものがあると直感したのです。二人は画家の岸浪百草居(きしなみひゃくそうきょ)の紹介で会った途端に共鳴しました。この頃の放菴は、中国明末の文人・石濤(せきとう)の画冊「黄山八勝画冊」の色彩の美しさに感銘を受け、画冊の制作に精力を注いでいました。青年洋画家たちの間で、写実を突きつめて絵の具を塗り重ねた風景画が流行することを憂慮し、明るく美しい日本の風土を描きたいと願ったからでした。放菴の日本の風土を愛する純粋な心が、佐三には仙厓の無垢な境地に重なって見えたのかもしれません。
もっとみどころ
わかりやすく実感、放菴の画業
近年、日本近代画壇の中で重要な人物として、密かに脚光を浴びている小杉放菴。しかし放菴の名は、いまだ一般の美術ファンにまでは浸透していません。実は、当館の初代館長・出光佐三は、彼の有力な庇護者でした。プライベートな交流からはじまった放菴作品の収集は、約300件に及び、出光コレクションの一つの柱となりました。出光美術館だからこそできる、本格的な展示。この会場を一望すれば、放菴の画業が、さらりと実感できます。
http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/exhibition/present/images/highligh_ph009.jpg金時遊行 小杉放菴 昭和時代 出光美術館蔵
第9章
妙高高原に別荘・安明荘(あんめいそう)を建てると、放菴は花鳥画に興味を持ち出します。鳥屋から鳥を買ったり、白かん鳥(はっかんちょう)を飼うための小屋を造ったり、川治温泉の鳥屋に一週間ほど籠もってスケッチをするなど、昭和10年(1935)頃から花鳥の写生の手控えが見られるようになります。戦争で田端の画室が焼かれて東京を離れると、安明荘で花と鳥に囲まれた世界に没入します。

「春光秋色自然の風物は人を慰める、又自然の風物を調理した芸術は人を慰める、この慰安芸術は、事実から遊離した境地のものでありたい、」 〔小杉放菴「兼山の縄」、昭和22年(1947)〕

愛国心の強かった放菴は、戦後の荒廃の中に於いて、絵の効用の一つは人々の心の休息や安らぎにあると考えていました。麻紙の繊維が醸し出す墨のぬくもりと絢爛な色彩のハーモニー。時間を忘れてたたずんでしまうような浄土世界は、放菴芸術の極みといえましょう。
http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/exhibition/present/images/highligh_ph010.jpg梅花小禽 小杉放菴 昭和時代 出光美術館蔵 〈2月21日~3月15日展示〉
サイトにあった写真は前期のもので、これも素晴らしい構図だけど、後期の同じ《梅花小禽》とのタイトルのあった二曲一隻の屏風もこれまた素晴らしい構図、大胆な構図は天性の巧さをつくづく感じさせられます。
いやー、楽しかった。
 

小杉放菴
没後50年ー〈東洋〉への愛
2015年2月21日~3月29日
出光美術館

2015年3月7日土曜日

魅惑のデミタスの宇宙............. 日本のハーブアンドドロシーのコレクション@三井記念美術館

昔むかしのことですが、英国の陶器 ウエッジウッド、ロイヤルクラウンダービー、ロイヤルウースター、ミントン等の並行輸入をしようとしていた時期がありまして、ま、実際にはそのプロジェクトは立ち消えにしてしまったので、手元にもサンプルもないんだけど、そんな夢見る乙女な時期があったわけですね。

・・・なもんだから、昨年の夏頃京都にいく予定があった時、「デミタス・コスモス」なる展覧会があるんで、寄って鑑賞したいなろうと思っていたのだけど、時間が作れず断念。ま、デミタスカッブだから、ま、いいか、と思ったのも事実。
その後、ある場所で知り合った三井の学芸員の方がこの巡回企画のご担当だと知り、あれ?それって?確か細見でみられなかったおんなじ企画?
しかも、記念のチロルチョコも販売するとの情報迄。

いやー、それなら行かねばならぬ。だって、「雪と月と花」に行った時は売り切れてたし。(え?そこ?言う?苦笑)
冗談はさておき(ゲットしましたけどね)、いやー、思っていた以上に楽しかった!

デミタスだけに絞ったコレクション・・・なんて、当時の夢見る乙女には思いもよらなかったけど、それを御夫婦の共通の趣味として、御主人のお身体のせいで浮いたお酒代でコツコツ集めたなんて、しかもお嬢様の結婚準備のお金が必要な時はお休みするなんて身の丈で集められたなんて素晴らしい。日本のハーブ&ドロシー?ま、H&Dよりは少しお金持ちなのでしょうけど。

と、いうより、素直に素敵なコレクションだわ!
まず、最初のケースに入った趣の違う三客のカップたち。
解説にも目もくれない段階で、すぐに一番左下のカップに目を惹かれー。
その《上絵金彩ジュール花文カップandソーサー》 KPMベルリン(1901-1920)と説明書きのあった赤い花などのゴージャスな柄の小さなカップはガラスケースの照明の反射を受けてきらめいて私に訴えかけてくるような美しさ。
それが御主人康裕氏の一番のお気に入りと左の解説にありましたね。
奥様の方は金彩の中に菫が描かれている1800ー10年頃のウィーンのもの。これも素敵。
お二人の共通の御趣味とはいっても、それぞれの好みもあって、二人でどんなのにしましょう?と仲良く選ばれていたのかな?なーんていう想像も広がり、優しい気持ちになれるのもこのコレクションの良さかも。
ちら読みさせていただいた図録には最初は色をテーマに収集、のちに絵柄、窯というようになっていったと書いてあったけど、その中でも、奥様の一番お好きなカップの絵柄にもなっていた菫のモチーフのものも、きっと集められていたんでしょうねー、中でも菫の花がカップの持ち手についていた《上絵菫図カップandソーサー》ニュンフェンブルグ1895ー1910年は、私の心をとらえてくれました。
持ち手といえば、ハイハンドルと呼ばれる持ち手のものにユニークな形のものが多かったなー。うずまきみたいなのとか、鶴・・・じゃなかった白鳥の首が取っ手になってて、くちばしでカップの淵を加えていたり、蝶々の形のものは、ウチにもあるから珍しくはないのかもしれないけど、友達は見たことなかったって言ってたし。四角い取っ手やいろんな形があって楽しかった
(残念ながら図録買わなかったので、ちらしの写真には、
このロイヤルコペンの蝶々の取っ手の以外、それらのユニークな形のものがなくって写真でお見せできず、ちょっと寂しいですが。。)

そして形の中でも秀逸なのはやはり、いつも国宝なんかが一点だけ展示されるところにあったロイヤルウースターの《上絵金彩ジュール透彫カップandソーサー》
1880年代のジョージ・オーエンという陶工の手になるもの、素地を完全に乾燥しない状態に保ちながら、様々な道具を使い小さな穴をくるぬくその技術を誰にも明かさなかったので、同じような作品を作ることができなかった、との解説。このカップandソーサーの脇には同じ技法の対になったポットが展示されていて、透かしだけではなく取っ手のあたりの七宝とかに目を奪われますが、もうひとつ見どころがありました。実は一回目の時には気づかなかったし、皆に聞いても見落としてる人が多いけど、注ぎ口の胴に近い部分に、このエメラルド色のポットの絵が描いてあるんですよ。これが、ちょっとかわいい。技法は誰にも明かさなかったオーエン氏の遊び心が垣間見られて、ヘンクツなだけではなかったと、ほっとしたりして。。

このカップandソーサーは二重構造にはなってないように見えましたが、セーブルあたりはちゃんとダブルフェイスといって実用的に内側には透かしではないカップ、それを取り巻く透かしという技法で魅せてくれてます。もともとは透かしの技術は中国からきているということなので、日本にも伝わってそうなところ、明治維新後のウィーン万博で見て技術をボヘミアまで行って学んできた納富介次郎という人が日本の製陶技術を上げたというからに不思議な気持ちになりますよね。だって、ロイヤルクラウンダービーとかはその絵柄を伊万里に学んだりしているわけだし、