最初のドキュメンタリーを見ていたので、続編ができると聞いて、行きたかった「ハーブ&ドロシー ふたりからの贈り物(原題は50 X 50 –fifty by fifty)」
を見に東京都写真美術館に行ってきましたーー。最初は5月までだったので、行けないかも(何しろ一日2回とかの上映なんで)と気がもめたのですが、好評ということで、行くと決めた時点では22日まで、それが、行ってみたら6月中まで、しかも、その日は佐々木芽生監督のトークショーもあるというではありませんか、ラッキー♪
まだ上映しているので、映画の展開や、関連記事は↓をご覧いただくとして
実は彼らが最初にDCのナショナルギャラリーに寄贈を決めたという記事がNYTに出た時には、リアルタイムでハーブが昔勤務していた郵便局の目の前に居てNYTも取っていたのに、読み飛ばしていたというのか、目に入っていなかったというのか。。。ダメダメな私。同じ通りの先の方の美術館支援活動は彼らと同じように自分のお給料の範囲内でやっていたというのに。。
だから、という訳ではありませんが、彼らの徹底した好きなものに身の丈の範囲内で入れ込む姿勢とその審美眼に最初のフィルムで魅せられた・・・もとい、実は最初のフィルムでは、彼らが支援していたアーティストが取り上げられた時や、所せましとアパートの壁や天井から飛び出しているのが映った時、ナショナルギャラリーの中で打合せをしている画面等で登場するときに映るだけで、纏まっては見られていないんですよね。だから審美眼の程は確認しきれていないというのが本当のところ。
実際、トークショーの時、佐々木監督自身が、自分は、小さい時は絵を描くのも好きだったのに、中学(だったかな)の美術の先生の方針と合わず、嫌いになってしまい、こういうアートのどこか良いかを理解していなかったし、一回目のフィルムの時には殆ど彼らの集めた作品を見てなかったと言っていたのが印象的でした。だからこそ、アートラバーでない普通の目線で彼らを捉えることができたのかもしれませんが、今回は少し勉強しようと思って、最近はスケッチをしてみようか等と思うように至ったとか。二人の熱意が、彼女自身を変えていったんですね・
横道にそれましたが、いずれにしても、その熱意、と作品を全て纏めて預けてくれるからとナショナルギャラリーに寄贈するスケールの大きさというところまでは一作目で垣間みることができたわけです。
ただ、こういう事ができるのも彼らがNYという美術愛好家にとっては、最高の環境にいたことが更に後押ししたんだ、という事も改めてわかるのが二作目です。
一方で、ベッドの高さがどんどん高くなる(↑の記事を読めば、それは冗談だということがわかりますが)ほど、作品がベッドの下等に眠るくらいであれば、こうやって美術館に並べてみると、彼らの審美眼で選ばれた作品が、素晴らしい輝きを持っていること、また一作だけではなく、流れで見ることによって、与えられる印象というものが違うという事等がわかるわけですね。
田舎(失礼)州の公共美術館ともなれば、購入する予算はゼロ、全て寄贈でなんとかやっていたり、よってもって、いきなりミニマリストの作品が飾られても、戸惑う鑑賞者も多い(トハッキリハイッテナカッタケド、ソウトレル発言ガ鑑賞者ノクチカラデテマシタ)ところとか、経済危機のあおりを受けて、閉館に追い込まれたところが出てきてしまったり、(ダカラSin-Cityナノヨネ・・トツブヤイテミル)、折角のGiftを生かし切れないところも当然出てくるかもしれない。常設で飾ってくれないかもしれない、と色々な問題(特に、今後の・・)の現れることが予想されるような映像も流れました。
表面の事象は違うかもしれないけれど数か月前に読んだ福島の美術館が今直面している問題の事を書いた本の内容を、映像を見ながら思い出したりして、大都市ではないところでの美術館運営というものが抱える問題点というものも、期せずしてあぶりだすことになっているなぁ、と。
尤も、ホノルルの美術館の人の語るように、ルネサンスのタペストリーを見て「自分にもできる」とは言わないけど、現代美術であれば「自分にも描ける」と言ったりする人が出てくるけれど、そういう評価ができるということは、それだけ身近なものだということであり、評価を始めた時点で、その人は、もうこの世界に入っている、そういう語らいができる作品があるというだけで、地元の人の為に大きな助けになっているといった極めてpositiveな意見もあったので、結局のところ、どう鑑賞者に向き合うかの美術館側の姿勢も大切なのかもしれない。。とも思いましたけれども。
そんなわけだからなのかなぁ、最後の方で出てくるハーブが亡くなった後のドロシーの言葉には、ドキッとさせられます。「ハーブは最初50州に分散させることには反対だったの」。実は佐々木監督もその時初めて知ったそうです、彼の最初の気持ち。
ただ、やっぱり、このプロジェクトをやってよかったと最後はハーブも思ってくれていたんではないかしら。ハーブは、佐々木監督が最初にお会いした時から「自分たちのやっている事は歴史になる」と随分歴史という言葉を使っていたそうなんですね。(↑のニューヨーカーの記事にもハーブの言葉として歴史が出てきます。)実際全ての州の美術館に寄贈した人はおらず、ロックフェラーといえども、できていない偉業ですものね。まさに歴史を作ったわけですね。
もう一つ重要なのは、スミソニアンの公文書館に寄贈されている、展覧会の案内状、ちらし、批評記事等、様々なクリッピング。普通の人はある程度はとっておいても、すべてを保管している人はあまりいないでしょうからね。貴重な資料でしょう。活用方法が問題かもしれないでしょうが。
見ているうちに、是非50作品を確認する為50州全部の美術館に行ってみたくなりました。
全て展示されていないかもしれないけれど・・・ただ、ナショナルギャラリーと言えども、彼らの寄贈した2000点の作品を一堂に展示するということはないでしょうから、あえればラッキーということかな。
因みに、映画の中にも出てきますが、50X50 の作品は全てウェブサイトで公開されることが前提になっているようです。http://vogel5050.org/#works&institutions=10
ただ、展覧会も行ったのに、なかなか、写真がアップされていない美術館もあるものだから、ドロシーが文句を言っていますがね。(苦笑)でも、もしかして、その言葉の意味は、映像の最後に出てくる場面(寄贈して整理して今まであった作品たちがアパートから消えていくーーこれがリアルなのか、シミュレーションなのかイマイチわからなかったけれどーーそして最後にハーブの描いた絵だけが壁に残る)の後なら、当然そういう気持ちになるかも・・・・
映画中、一時は彼らのおかげで日の目を見たものの、暫く注目されていなかったアーティストの人が、このプロジェクトによって、再び自分の作品を見てくれる人が出てくることに感謝している場面がありました。フェルメールすらあと”3”の私に2500全部見るのは狂気の沙汰かもしれないけれど、少なくとも、こうやって公開されて、佐々木監督のおかげで、太平洋の向こう側から、作品を生で見たいなーと思う人が一人でも出ることが、寄贈という彼らの行為によって起こされた良い化学反応なんだと思います。
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