2013年3月9日土曜日

プライスさんの生ボイスを聞いてきた♪ー日本美術全集発刊記念スペシャルトークセッション 若冲奇想の系譜~それぞれの若冲体験


小学館創立創業90周年記念ということで昨年12月から刊行が始まっている日本美術全集、その第二回配本が若冲・応挙を取り上げているという事と、仙台から始まった東日本大震災復興支援 特別展「若冲が来てくれました」に際してコレクターであるジョープライスさんがいらしているということもあり大々的に(?)開催された『日本美術全集』発刊記念企画スペシャルトークセッション「若冲、プライスコレクション、奇想の系譜 ~それぞれの若冲体験~」登壇者、ジョー・D・プライス氏、狩野博幸氏 (同志社大学教授)、山下裕二氏 (明治学院大学教授)@丸ビルホールの抽選に当たったので、土曜の昼という、美術館めぐりには最適な時間帯を削って行ってまいりました。








プライスさんが、そのコレクションを寄贈し、建築費用も3ン分の一以上を寄付したという日本のどの美術館よりも東洋を意識させられるロサンゼルス郡美術館(LACMA)の日本館http://en.wikipedia.org/wiki/Pavilion_for_Japanese_Art


にもたびたび足を運び、そのコレクションの恩恵に浴したり、2006年にトーハクで開催された「プライスコレクションー若冲と江戸絵画展」でも、そのコレクションと見せ方に目を見張らされただけに、プライス氏その人のリアルな姿・声を聴ける事を楽しみにしておりました。






ツイッターのハシュタグは#若冲トーク・・・と知ったは良いものの、度々のアナウンスで、会場内での携帯電話の電源オフ(カメラ撮影禁止は勿論ですが)を言われると、同時進行では呟けない。。。ですよね?! リアルタイムで呟いていた方々は、何を使って呟いていたのでしょう。。。。(ギモン)






それはともかく、山下先生がモデレーターとなって、パネル方式での会話・・・とはいっても、日本語が中心なので、狩野先生のお話が多くなりがち。プライスさんは通訳を通じ、聞いたことが正しければyesの一言、この間の仙台もそうだったんですよねー、と山下先生が会場の笑いを取っていましたが、通訳を通じての事実関係が違うことに対しては、きっちり反論(笑)もされていました。






例えば、最初に若冲作品に出会ったときのエピソードを山下先生が解説したのを通訳を通じ聞いたプライスさん。訂正したかったことは、別にポケットにベンツを買うお金をつっこんで古美術商に行ったわけではなく、しかも、そこで、若冲とも知らずにあの葡萄の軸を買うことになった事。次に狩野先生も初めて若冲の魅力に触れることのできた大正15年の帝室博物館展覧会の図録「御物若冲動植綵絵精影」【白黒】で初めて若冲の絵に触れ、その古美術商に連絡をとったら、「今はない、でもあなた、お持ちでしょ?」と言われた、というお話。要は初めに名前ありき、ではないということ。お金持ちでフランクロイドライトのかばん持ちのような事もしていて、審美眼が若いうちからしっかりしていた、という事でしょうが、何故に帝室展覧会の図録と同じ図絵を見ることができたのかしら。。そんな話をもっと伺いたかった気持ちにはなりましたね。





それはともかく、この話につながる事としては、狩野先生が2000年に京博で、没後200年ということで企画した若冲の展覧会では、最初の部屋にまず解説を見ないで絵を見てほしいという看板を立てた話。そうそう。一般的に入室するとまず最初の部屋にひとがわーっとたかっていて、なかなか進まないという事ありますよね。混雑しているときは解説なんかすっ飛ばして、先ずは目に留まった絵(や工芸品・彫刻等)をばんばん見て、それから戻って気に入ったものをじっくりみたいクチの私ですが、(空いているときはその限りではないが)、怒られちゃったことがあるんですよねー、出光で、きっちり並んでいるおばちゃまに。つばの広い帽子のまま鑑賞していたり、においの強い香水しているなら、怒られても致し方ないと思うけれど、自由に見て歩くのに何故文句を言われなくてはならんのか!とこっちが怒りたくなることがあるくらいので、我が意を得たり!なご発言でした。


(あーすっきり。)


それはともかく、プライスさんの伝えたかったことは、「自然光が入る環境で鑑賞してほしい」。うつろう光の変化で絵の見え方が変わる、そんな情緒を大切にしてほしいということだと思います。確かに2006年のトーハクの展示でも、同じ屏風が昼の光と夜の行燈光で見え方が違うということで、何分かおきに、光を変えて展示してくれていたことを思い出しました。勿論、ソレだって人工光なわけで、彼の思っている完璧な環境でもなかったし、今度の東北でもそれは叶わないかもしれない・・・それが現代の限界なのはわかっておられるでしょうが、なるほどLACMAの日本館は外光を取り入れる設計ーー普通の美術館と雰囲気が違いますし、LACMAの他のビルとも違うーー障子を多用していて、光が和らいでいる環境の中で、軸絵が見られたりしていますから、その建築と内装についても評議委員として、アドバイスをされたのかもしれないなぁ。。そんな話も聞きたかった。


勿論、狩野先生のお話や山下先生のお話も楽しかったですよ。





例えば2000年の京博での展覧会直前に発見された菜蟲譜を舞台バックのスライドで全巻見せながら、最後の蛙の絵に至った時。山下先生が、この蛙だけが、他の詳細な描写と違って漫画チックになっているとおっしゃったところ、狩野先生が、実は同志社大学の先生の研究室の入り口にこの蛙の絵をプリントして学生が貼ってしまったこと、似てるからですかねぇーと笑いを取っておられましたが、それは、きっと初めて国宝・重文を選定する委員会にご出席されたときに天啓のように、この菜蟲譜が候補として挙がってきて、重文としての推薦をすることになった、という先生の若冲への(偏)愛をユーモアと尊敬をこめて貼ってくれたにちがいないですよ、先生。





菜蟲譜はこの秋の完成を目指して、現在修復中ですけど、丁度、修復に入る直前に栃木市立吉澤美術館で公開されていた時に見られた部分もその蛙を含んだ最終部分だった事を思い出し、個人的にも感慨深かったです。



それと、初めて(?)知ったこと。


鳥獣花木図屏風の升目は正確には12ミリ四方。これは京都の染色の技法での標準サイズをそのまま使っているそうで、且つ、屏風の周囲を取り囲んでいる柄はペルシャ絨毯の柄だとか。

尤も、このことは正確には2006年の展覧会の図録に「西陣織の下絵」から発想されたと書かれていたので、あれ?染色?と思ったわけなので、初めてなのは染色と聞いた事と12ミリ四方の事なのですが。

そのペルシャ絨毯そのものは祇園祭で使っているとかで。。へーそうなんだ。

で、祇園祭で若冲が下絵を描いたものではないかと言うんですね。応挙も描いていたかで、今も祇園祭りに使われているとか、へーー。。


後、皆がかなーりツイートしていたこと。

若冲はかなりお金持ちで普通では使えないような最高の画材(絵の具・絹・紙)をたっぷり惜しげなく使っていたというお話。

魚の目玉に漆を使っているという話。
まぁ私的には、その魚シリーズの烏賊が(スルメを食べたときみたいに)一部ちぎれていたり↑蛸の足の先に子蛸がくっついている↓・・・そのユーモアにあふれた描き方ーーあんまり若冲では、そういったユーモアにあふれた作品を拝見したことはないものですから、もし東北でこの絵が見られたらいいんですけどねぇ。。





後、プライスさんが一番最初、白黒の図録で見て感動したのが《動植綵絵》の中の菊花流水図だそうです。それを機会があるということで、とんぼ返りで、京都まで往復二日で出かけて見せてもらった(イイナァ、コレクターダトソンナコトモデキルノカ・・・)とき感動して、心ふるえ、さめざめと涙を流したというのです。

実はカラーのスライドで見た感じでは、そうなの?という感じなんですよねー、私。

これも東北で見られるのであれば、是非、その魅力を確認してみたいなぁ。。




最後に、狩野先生が若冲(ワカオキと呼ぶ人が2000年の頃は多かったとか)=プライスさんと思っている学生が多いというお話を披露したとき、プライスさん、いや私には絵は描けないからとおっしゃっていましたが、まんざらでもなさそうな笑顔を見せてくれました。


今回東北には無償で貸し出しをしてくださっているプライスさんの笑顔が本当にステキでした。

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