2013年3月16日土曜日

キャパは二人なのか、やっぱり一人なのか・・・「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家」


きゃー、また会期末近くになっての感想文になってしまいましたが、先週 漸く「みなとみらい」の横浜美術館で開催されている(24日まで)「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家」展に足を運んできましたー。

仲間うちの評判が良いので、ブログやらを斜め読みして、「そうか、キャパというひとつの名前で二人がそれぞれの写真を発表していてタローが死んでからその名前をアンドレが独り占めして継承したのか・・」と早合点していたのですが、展覧会に行って、そりゃ違うな、とわかりました。やっぱりちゃんと自分の目で確かめることは大事ですね。とはいえ、美術館の展覧会概要にも、二人が創り出した名前であることは書いてあっても、二人がその名前で発表していたとは一言も書いてませんものね。おっちょこちょいの私。(汗)

世界で最も著名な写真家のひとり、「ロバート・キャパ」ことアンドレ・フリードマン(1913年生/1954年没)が生まれて今年で一世紀が経ちます。しかしこの「ロバート・キャパ」という名が、当初フリードマンとドイツ人女性ゲルダ・タロー(本名ゲルタ・ポホリレ、1910年生/1937年没)の二人によって創り出された架空の写真家であったという事実は、あまり知られていません。
1934年にパリで出会い意気投合した二人は、1936年春に「ロバート・キャパ」という架空の名を使って報道写真の撮影と売り込みをはじめます。仕事が軌道に乗りはじめてほどなく、フリードマン自身が「キャパ」に取ってかわり、タローも写真家として自立していきますが、その矢先の1937、タローはスペイン内戦の取材中に命を落とします。タローの存在とその死は、キャパのその後の活動にも大きな影響をおよぼしたといわれています。
本展覧会は、キャパとタローそれぞれの写真作品による二つの「個展」で構成されます。死後50余年を経てなお絶大な人気を誇るロバート・キャパと、その陰でほとんど紹介されることのなかったゲルダ・タロー。約300点にのぼる豊富な写真作品と関連資料によって二人の生涯と活動の軌跡を辿りながら、両者の深いつながりと個性の違いを浮かび上がらせていきます。
横浜美術館 公式サイト 展覧会概要より・・・

それはさておき、その二つの個展のタロー版が最初に始まります。
もともと、2007年にニューヨークの国際写真センター(ICP)で世界初となる個展「Gerda Taro Retrospective」が、開催・ロンドン等に巡回したものと同じ構成のようです。
真四角のローライフレックスで撮影されたタローの写真は基本的に低い位置から撮影され、広い空を背景にして人物を中央に配する構図が多いのだそうだけど、中で最も印象的だったのは、色々な職業の貧しい村人の人たちが思い思いの服装で一つの銃を共同で持って戦い始めたスペイン内戦の初期の頃女性兵士のこの写
http://digitaljournalist.org/issue0710/y_taro14.html より

 

屈んだ姿そのものが絵になっていることもあるのだけど、銃を構えているというのに、足元をみると太いけれどヒールのついた靴を履いているんですよね。これは私にとっては「新鮮な発見」でした。
戦況の悪化に伴って、前線の女性兵士の数は減ってしまったそうです。うん、ヒールじゃ無理だな。

スペイン内戦に係る美術についてはピカソの《ゲルニカ》がとても有名で、その悲惨さを強く印象づけられている訳なのですが、最期にはマドリードに程近いブルネテの前線に出向いていたというゲルダ・タローの初期の写真はとてもどかな感じがあって、ほのぼのさせられます。
スープを飲んでいる小さな戦争孤児の男の子をクローズアップで撮った写真も非常に魅力的でした

彼女の写真がキャパと同じ長方形のライカに変わっていく頃から、共和国政府(対するのはフランコ将軍率いる反乱軍・・・結果的にフランコ将軍の独裁時代が始まるわけですね)の戦況悪化と共に構図とユーモア・笑顔を失っていくという解説通り、戦死者の近くまで寄って撮る等、フロントへフロントへと突き進み、ある種の焦燥感のようなもの――余裕がなくなっていく感じが80数点の写真の流れを見て行くとよくわかりました。
そして、その焦燥感が戦況のなせるわざのみだったのか?という疑問を持つにいたったのは、アンドレ・フリードマン転じたロバート・キャパの写真を見てのことです。

というか、写真の内容に入る前に、解説を読んで凄いなーと思ったのは、横浜美術館には彼の弟さんの好意によって193点もの作品、更にいわば原版ともいうべきオリジナルプリントを相当数保有しているという事実。何故、弟さん(コーネル・キャパ・・・弟だってフリードマンだったろうに、名前変えちゃったわけね。。)が寄贈してくれたのか、そんな「いきさつ」も解説してほしかったなぁ。(図録買わなかったけれど、どこかに書いてあるのかしら?)

それはともかく、タローの焦燥感の原因について、私なりの分析。(・・というほどでもないけど。)

どこかのレビューで、「ちょっと残念なのはキャパとゲルダの写真がまったく別の部屋に飾られているので、できれば並べて見たかったと」と書かれていましたけれど、プリントではないにせよ、ちゃんとキャパとタローの年表と共に、同じ場所で撮影された二人の写真のパネルが寄り添うように展示されていたんですね。(ソノレビュー書イタ人、現場ニ行カズニ図録ミタダケデ書イタンジャナイカ疑惑。。。)
それを見ると、私の目には圧倒的にキャパの撮ったアングルやフレームの方が迫力がある・・・一枚の写真を除いて。

例えば、タローはマラガ(ピカソの出身地ですね)からの難民達を全体像として撮っています。難民の人たちが、ひとつの部屋に入れられていて、これからの不安な日々を憂えている雰囲気が伝わってくる上質の群像写真です。


(この写真はちらしに載っていた写真をトリミングしています) 

同じ場面で、キャパは慟哭の表情ををして立っている女性を横からクローズアップで捉え、そのスカートの後ろから、私がママを守るとばかりな強い光を放つ目をした少女がカメラを見据えているんです。


私にはタローの写真より、迫真を持ってこれからの難局に立ち向かうオトナとコドモの不安と決意を訴えかけている対比のあるストーリーを問いかけているように思えたわけなんですね。
どのような角度から捉えるかによって印象が違うので、どちらがいいというわけではないけれど、キャパの一瞬の表情を捉える力は凄いですよね。

タローにカメラを教えたのもキャパだった事を除いても写真の構図や撮るタイミングって、やっぱり、撮影者の天性の「眼」がものを言うから。。。(ト、イツモ自分ノ撮ル写真ノダメダメサヲ呪ッテイルノダ)

ゲルダ・タローという人は、そのタローという名前も岡本太郎から取った(本名はポポリレ)り、それが、ユダヤ人とわからぬようにする目的があったとしても、キャパの名前をプロデュースしてみたりと、ネーミングや売り込み等には子供好き(写真家として)で素朴な(勝手なイメージですが)なキャパ(アンドレ・フリードマン)に比べて才能溢れていたと思います。

ですが、写真家としてみた場合、もちろん彼女も十分優秀なんだけど、その瞬間を捉える力や構図取り等、微妙なタッチがキャパに敵わないと彼女自身感じていたのではないか、だから、フロントまで出ていって、危険な位置取りで撮影するというアグレッシブな手法で彼を上回る写真を撮りたいという欲望を出していき、構図に注意を払う余裕がなくなってしまったのかも。。等と勝手な想像を加えております。あくまでも想像の世界ですがね。

一枚の写真を除いてと書いたのも、キャパとしての出世作として知られる《崩れ落ちる兵士》だけが、
http://digitaljournalist.org/issue0710/x_capa_taro12.html より

他のキャパの写真からみるとその微妙なタッチを失っているように思えたからで、それがタローの撮影した写真説(沢木耕太郎さん)なんかを読んでしまうと、我が意を得たり・・となりかねないので、自重しますがね。それに、当時彼女が使っていたのは正方形のローライフレックス・・・だから、この作品はキャパのものと認定されていたはず。。
あっ、勿論、この写真が真実を撮影したか否かの議論やキャパかタローかという議論をよそに、この写真の構図は大変印象的で、(たとえ微妙なタッチが失われていたとしても)素晴らしい写真であることには違いがありません。念のため。

ただ、車のステップに飛び乗って脇から戦車に衝突されて亡くなるという劇的な死を遂げたタローの一生はあまりにも短く、また、その死を反ファシズム運動の殉教者として政治的に利用しようとする人たちを巻き込んでお葬式だけは数万人も集まったそうだけど、その後は忘れ去られてしまったというんですね。そうだとするとやはり、それまで有名であったのはその写真の質ではなく「勇猛に戦場を駆け巡る左翼系カメラウーマン」であり、その役目を終えたら作品は残らなかった。。という事になってしまって、「崩れ落ちる兵士」がタローの作品として世に出ていたら、ちょっとは違っていたのか・・・との想像もし、ちょっと残念でもあります。

しかし、同じく最後は戦場で地雷を踏んで命を落とすことになるキャパの力強い作品を一枚一枚みるにつけ、やはり、有数の報道写真家・・敢えて戦場カメラマンとは書かない・・としての実力をヒシヒシと感じます。特に人物の表情が実に自然で、そして一瞬の表情に被写体の性格や気持ちを捉えて切り取っている。今みたいに簡単にパチリとシャッター押して撮れる時代でないはずなのに。。。。
この↓写真


だってタローが亡くなった後もスペイン内乱を撮り続け、最後は共和国軍が解散する(つまりは負けたということ)にあたっての共和国軍兵士のなんともやり切れず哀しさあふれる表情を捉えて涙をそそります。

この人が映像写真家(ムービーですね)になりたかったという話も含め、決して戦場カメラマンとして生きたかったわけではなく、金(といってしまうと身も蓋もないけど)や売り出す為の手段として使った戦場での写真が、また質がよいが為に次を求められるようになって、心ならずも、戦地に赴いたのではないか・・とまで考えてしまう。。(実際のところは自伝も読んでないからわかりませんが)ほど。

金と思っちゃうのは日中戦争の写真が中国よりのプロパガンダ写真だったりするからですけど、戦場での写真より肖像写真に、この人本来の伸びやかさを感じるから・・特に、地雷を踏んでなくなる直前の日本での写真は名所旧跡には目もくれず人をとっていた、ことからも、この人の興味は人・・・でも有名になってしまって、戦場という場での報道写真を求められてもいたから、そのフィールドの写真を撮り続けることになったのか。だから彼にとっては、凄惨な殺戮をするのも人という切り口での報道写真なのかなぁ。。と感じさせられました。(だから戦場カメラマンと書かない)ま、これも勝手な想像ですが。

とはいえ、この数多くの残された写真の中からロバート・キャパという人、或いはゲルダ・タローという人の心の中を想像する事ができるのもこの写真展の力なのかもしれないですねぇ。

常設展でも戦争の場での報道写真を撮っていた人たちの写真が展示されていました。
丁度、出かける前に沢田教一のピュリッツァー賞を受賞した写真の被写体となった家族に俳優玉木宏が会いに行くという番組を見たばかりだったので、常設だということもあり、これは写真を撮らせてもらいました。

この写真も素晴らしいですが、戦地に赴いて前線で写真を撮る人も最期はつらい。。沢田教一は、タローやキャパ同様戦場で命を落としたんですよね。

キャパの最後の写真(本当はカラー写真が最後だったので最後から二番目の写真)はフィルムロールの右端の黒い部分をわざと残し最後のコマ11がわかるように現像されています。キャパが写真家の権利を守るべくアンドレ・ブレッソンらと設立した写真家集団(会社?)マグナムの同僚(とでもいうべき)モリスが哀悼の意を込めて現像したものだそうですけど、その黒い部分の先は永遠に戻らなかったキャパの命を表し、11番は戦場であったインドシナのちょっとのどかに見える風景で終わっていました。でも、その風景のあちこちに(今も残るといわれているけど)地雷が埋めてあったんですよね。嗚呼。




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