2013年3月10日日曜日

まじめな人なんだなぁ・・・・・会田誠展ー天才でごめんなさい

いや、私自身は今までの作品を見ていても、そんなに酷いとは思っていなかったというのが正直なところなので、サポーター募集のちらしを見たときから、この展覧会に注目していて行くつもりではいたんですけどね、森美術館は夜やってるから、夜空いている日に行こう、行こうと思いながらも、強烈な抗議がなされているなーんて話を聞いたせいか、来週にしようとか、いや、その次の週にしようとか、なーんか、行くのをすこーしずつ、遅らせていたという感じで。
(そのせいで、東山魁夷の《道》を連想させる初期作品《あぜ道》
http://mizuma-art.co.jp/artist/popup.php?uid=0010&imgID=11

の展示期間が過ぎてしまってましたが。。。汗)

ぐるっとパス仲間のお誘いで、ようやく、来ることができましたー。


感想は。。。


①すごく面白かった。
②会田さんはとてもまじめなアーティスト。(デモ照レガ誤解ヲ招イテイル・・・・?!)


この二言に尽きます。なーんだ、やっぱり早く行けばよかったーーー。


ご本人は「おにぎり仮面」

を自称して《考えない人》(これだけは写真撮影OK)とか作ってみたり(こうやってみると弥勒菩薩のようなほっそりした体躯ですねぇー、でも台座は。。。。汗)、

西洋哲学に対するアンチ作品とでも言うべき作品を作られていますが、それはあくまでも表面的な「見え方」であって、その作品には、ご本人の意思か否かは別として、時代に対する洞察や強烈な風刺が内包されている、というかメッセージがびんびん伝わってくるように思いました。
それが、とても面白いと感じられるのです。

だって、比較的早い時代の《戦争画returns》のシリーズを見ればわかります。
もう戦争画・・と聞いた瞬間に、近美の戦争画が集まっているコーナーを思い出させられますが、たとえばあそこに展示されているレオナール藤田の《アッツ島玉砕》のような戦争という大義名分の下のリアルな殺戮絵を見ると言いようもない、虚しさと、悲しさと同時にあまり気持ちのよいとは言えない気分にさせられます。それが藤田の見事な筆致であったとしても、それが記録のためだとしても、南の島(フジタはサイパンの玉砕も描いてますからねー)でそういう事がつい(・・・デモナイカ)60数年ほど前に行われていた。
今のゆるゆるな脳天気ニッポン(コノシリーズ描カレタ頃ハマダ震災前デスシ。)人たちは、凄惨な殺戮の行われた南の島に嬉々として行くんだね、と言わんばかりに、箔のごとく貼られた○○パックのようなパンフレットの上に、その戦争の絵(といってもドリップではないけど、アクションペインティングのような色が重ねてありましたけど)が描かれている。

同じように感じさせられるのは、最初の部屋にあった、ピンクチラシ(しかも、今や懐かしい電話ボックスとかにベタベタ貼られていたような、名刺サイズくらのやつね)を箔に見立てた地の上に狩野永徳ばり(イイスギ?)の木が描かれている《鶯谷図》にも、今の日本・・というか都会というのかな、美しいモノも猥雑なものも全て一緒くたの中から、美を選んでいかねばならぬ現実を描いているのかな・・・なーんて感じたんですよね。
確かに、センセーショナルなモノ選びというか、ロリコン的な性愛やちぎれる肉体なんかが、まず視界に入ってきてしまうから、不快感を感じないというのはウソになっちゃうけど、それを超えた深さがあるように思います。

もちろん、同じ絵をみても、みんなが同じように感じる必要もなく、表層だけで、良い悪いと批判してもいいんだけれど・・・少なくとも《戦争画Returns》シリーズは、非常に深い。
水餃子のようなものの載せられた皿の絵に「許可」という朱印の押された《支那料理》なんて、そんな検閲の時代があったこと(いや、食べ物そのものにはなかったかもしれないけれど)、そういう悲しい時代に戻りたくないよね・・と強く思わざるを得ないし、くすっと笑いもする。
この部屋の作品はどれも非常に強いメッセージ性を感じるし、彼の好きでない(ラシイ)公募展なんかでは絶対に見ることのできない大胆かつ、インパクトの強い、しかも絵も旨い屏風絵だったりするわけで、もっと長くみていたかった・・

人によっては、会田さんの説明「戦争は抒情」という言葉から、戦争の犠牲になった人のことを顧みていない、と捉えるかもしれないけれど、私には、言葉はご本人の照れのようなもので、311の時の色々な意見のツイートを公平に並べた《Monument for nothing 4》と同じように、絵からは逆にその犠牲者への思いが強くなりすぎないように、批判の目を感じさせるように”作って”いるように思うのです。

だからこそ、今回の個展のために新たに描きはじめたという縦2メートル、横17.5メートルという大作《Jumble of 100 Flowers》だって、(標的の先のヒトを殺す(?)というゲームから発想されたそうですが)ゲームがどんどん先鋭化し、現実と仮想の区別がつかなくなっていることに対する警鐘のように感じるんですよね。標的にされた少女からは、少女がアンドロイドであるために血しぶきではなく、イチゴやら蝶々が飛び散る。
そこに救いを求めてるように思える。
それすらアンドロイドとはいえ、少女のハダカだからダメと言われてしまったらおしまいだけど。。。でも、電車の中吊りにだってそんなのが溢れている時代に、この展覧会だけがダメと言われるのもなーんか不思議。

抗議している人たちもいるのはわからんでもないのですが、そうだとしたら、その人たちは葛飾北斎にも抗議するのかなぁ。北斎はそりゃ、富嶽三十六景で見事な赤富士(《凱風快晴》)や波が砕けるしぶき《神奈川沖浪裏》だって描くけれど、春画も有名ですよね。
18禁コーナーの《巨大フジ隊員VSキングギドラ》なんて、よく言われるようにその北斎の春画がモトネタだろうとすぐに想起できるわけで・・・ご本人のいわれるように、狭い部屋でコソコソと見るから面白い・・・のでしょうし、そういうニーズがある、という事実に正面から向き合っているだけのようにも思います。ま、《イデア》という美少女という文字に向かっての朱印(音同じ、漢字違いの)は、さすがの私もちょーっとね、必要なことだったのかしらん、とは思いますが。。

個々の作品では、美しい料紙の巻物に何やらとんでもない言葉が並べられている《日本語》なんてのは、料紙の美に魅せられている私的には興味をひかれたりしましたね。
ビンラーディンに扮したご本人が、その作品を宣伝していたりするVTR、しかも、いかにも洞窟の隠れ家のようなつくりにしたダンボールの家の中にあるテレビから映し出されてたり、インスタレーションなんかもなかなか楽しかったし、大学三年生の時の作品《河口湖曼荼羅》は、早くからその才能があふれていたことを示す貴重な作品でした。《灰色の山》-サラリーマンの山の中に、一人色付きの絵描きのような人がいましたが、あれは洋の東西を問わずよく画家がやる「自画像」なのでしょうか?

いやー、100点以上という作品をすべてじっくり見たわけではないけれど、制作年代、メディアや表層の表現こそ違え、かなり一貫性を感じるものも多かったし、一方で、当然ながら、ついていけない作品もありました。(感想文的には、良かったものにはかなりのシンパシーを持って書いてますけどね。)

同世代の山口晃さんが絵師だとしたら、やっぱりこの人はアーティストだな。天才・・・かどうかはわかんないけれど。
とにかく、面白かった。

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