放菴作品の展示は、当館では2009年2月に開催した「放菴と大観-響きあう技とこころ-」展以降、6年ぶりの公開となります。とくに今回は、東京国立近代美術館、小杉放菴記念日光美術館、栃木県立美術館、泉屋博古館分館ほかのご協力によって、放菴作品の代表作が集います。約90件の作品で放菴の魅力に迫る展覧会。この機会をどうぞお見逃しなく。
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放庵画冊より 明治時代 小杉放菴 出光美術館蔵
小杉放菴(こすぎほうあん 1881~1964)は、明治14年(1881)に日光二荒山(ふたらさん)神社の神官・富三郎(蘇翁)の末息子として生まれます。国学者で文化人であった父に従って、15歳で日光在住の洋画家・五百城文哉(いおきぶんさい)の内弟子となります。高橋由一(たかはしゆいち)の門人で実力者だった文哉に可愛がられてデッサンを学びますが、青雲の志を抑えきれなくなり、18歳で上京、小山正太郎の画塾・不同舎に入ります。勇壮な外貌と、〈未醒(みせい)〉と号するほどの酒好きで元気者の放菴。小山に見込まれて、日露戦争では国木田独歩(くにきだどっぽ)の『戦事画報』(旧『近事画報』)の従軍記者として戦地へ赴き、挿絵で悲惨さを訴えました。洋画家の美術団体である太平洋画会に出品する傍ら、田端の自宅近くに倶楽部を創り、画家仲間とテニスを楽しむうちに、その仲間たちとの間で美術同人誌も生まれました。同人誌に寄せた漫画には、現実社会を直視する繊細な優しさが溢れています。田端に住んだ芥川龍之介も、外貌と内面の差が激しい放菴を、愛おしそうに“未醒蛮民(ばんみん)”と呼びました。
先ず入って最初の章のタイトルに「蛮民」とあるので、野蛮な民って言われいてたの?と一瞬戸惑い、更に、宮司の子供であるからには野蛮からは程遠いだろうーと読み進んでみたら、なるほど愛おしさによる命名だったのですねー、しかも芥川龍之介による命名かぁー。。
それはともかく・・・
敬愛していたという高橋由一を師にもつ五百城文哉と放菴の《日光東照宮》の絵が並ぶ最初のケース。
放菴のそれには、師である文哉の画風をひたすら模倣しているといいつつも、師よりコントラストが強調され白馬会系の影響がある早熟な手の跡・・というような解説がついています。確かにフォンタネージの影響を受けたという大きくて堂々とした師の絵に比べると号数の小さい絵ながら、遠景の木々を薄紫にして朝もやに煙るような森閑とした空気を出している放菴の方が迫力がありますねぇ。また、確かに黒田清輝に代表される白馬会の画風を取り込んでいるといわれればそうなんですけど、私はむしろ、後に影響を受けるというシャバンヌと似た空気を感じましたねぇ・。。
自画像に続いて次のケースに飾られている《婦人立像》、全体的なイメージはちょっとナビ派のような印象。
水郷 小杉放菴 明治44年(1911) 東京国立近代美術館蔵
明治40年(1907)から文部省主催の美術展覧会・文展が開催されるようになると、放菴は徐々に頭角を表し、30歳頃には「水郷」と「豆の秋」と二年連続で最高賞の二等賞を受賞します。洋画界の将来を嘱望された放菴は、翌年の大正2年(1913)には銀行家・渡辺六郎の後援を得て渡欧し、当時世界的に流行したフランスの壁画家ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(1828~98)に憧れて、パリを拠点に半年間、ヨーロッパ各地の壁画や美術館を見てまわります。しかし、ヨーロッパの伝統の重みに圧しつぶされそうになり、パリで江戸時代の文人画家・池大雅(いけのたいが 1723~76)の画帖「十便帖」の複製に“帰り行くべき道”を示されて、帰国後は日本画に傾倒してゆくことになります。ここでは、文展入賞、留学中、帰国後の油彩画に、隈取や筆触といった日本画特有の味わいが表れてくる過程を追います。
《水郷》は二等賞という事ですが、旨いけど、題材のせいか楽しくないかも。でも洋行中の《スペイングラナダ娘》は、マティスの影響受けてるなー、と思ったりできるのが楽しい絵です。構図はシャヴァンヌだというのだけど。。そうなのかー。。
この留学中と帰国後の大正時代は色々な事に挑戦している感じ。《初夏山雨》なぞ、なんかエッチングでみられるような細かい点と奥行のあるふしーぎな画面で目を引き付けられます。解説によれば東洋画で常套的に使われる済による黒い点で苔を表すだけではなく、白い点を加えることで雨に濡れた輝く山を表現できているとの事だけど、何しろえぐるような線なぞは当時にしてはアヴァンギャルドだったのではないかと思うのです。
湧水(いずみ) 小杉放菴 大正14年(1925) 出光美術館蔵
東洋色が濃くなって帰国した放菴を支えたのは横山大観(よこやまたいかん)でした。大観は大正2年(1913)、岡倉天心(おかくらてんしん)亡き後の日本美術院に、放菴を洋画部門のリーダーとして迎えて再興し、二人は意気投合して国際社会に恥じない新しい絵画を創り出そうと情熱を傾けます。大正9年(1920)に、院から洋画同人たちと共に脱退すると、洋画家たちと創設した春陽会に加わり、水墨の素描や東洋趣味の洋画を出品して注目を浴びました。そして、大正末期には壁画の依頼にも意欲的に応え、洋画家としての地位が不動のものになりました。東京大学大講堂(通称安田講堂)の舞台を飾る壁画では、ソルボンヌ大学大講堂のシャヴァンヌの壁画を念頭におきながら、裸体のミューズたちを天平風俗の乙女に変え、東洋的な情緒を湛えた作風へと昇華させています。日本画を思わせる色彩や筆触が、油彩画に淡白な柔らかさを与え、東西や時代を超えた神話世界へと誘います。
実際の安田講堂の壁画は持ってくることができないので、下絵が展示されているわけですが、シャヴァンヌを意識した人の動きとか構図なんだそうです。でも日本的というのかふくよかな東洋的な人たちが並んでいる壁画写真や《湧水(いずみ)》を見ると、よく咀嚼しているという印象を受けます。つまり自分の画風としているような感じ。
瀟湘夜雨 小杉放菴 昭和時代 出光美術館蔵
池大雅の「十便帖」の複製に、放菴は思いがけず墨線の力を見出します。放菴の留学した1913年の西欧においては、ピカソやマティス、カンディンスキーなどが絵画のリアリズムを否定し、新たな空間原理を創り出そうとしていました。しかし、画面上に空間を自由自在に作り出す大雅の線は、こうした西洋の動向に先駆けた新しい線と感じられたのです。
「大雅堂の絵は、さながらの音楽、最も自然を得て、最も装飾的、暖かく賑やかに、しかしながら静かなる世界、其の基調は一に彼の太く緩く引かれたる線條に在る。」〔小杉放菴「線」、大正14年(1925)〕
帰国後の十年間、大雅研究に熱をあげる一方、中国旅行をし、宋元画など中国の古画学習にも没頭してゆきました。ここでは、江戸時代の文人画と放菴の南画の競演により、放菴が憧れた文人世界を検証します。
この章に入ると、池大雅と放菴の同じ画題《洞庭湖秋月》とか《瀟湘夜雨》を隣り合わせて展示。浦上玉堂と同じ画題もあり。そうやってみると、先人にかなり軍配があがってしまうと見えるのは私の偏見かなぁ。。放菴の《瀟湘夜雨》は、大雅にひけをとらないし、比較画題のなかった《渓雲》は良いと思ったわけですが。
《大雅堂瀟湘八景扇面小皿》は元絵が池大雅、染付が放菴、窯は板谷波山というゴージャスな組み合わせ、光悦・宗達や尾形兄弟のコラボを想起させる組み合わせですね。
帰院 小杉放菴 大正15年(1926) 出光美術館蔵
大正期には、大観らの影響もあり、日本画の画材に関心が高まります。洋画の主題を屏風、金箔地、絵巻に、南画の主題を油彩画へと、様々な媒体に試して好評を得ました。さらに大正末期に、福井の紙漉き職人・岩野平三郎が、平安時代に姿を消した麻紙(まし)の復元に成功すると、放菴は一種変わった墨の風合いをみせる麻紙の虜になりました。そして昭和4年(1929)の中国旅行の時、その餞別として洋画家の倉田白羊(放居士 ほうこじ)から画号の一字を奪い取って、〈放菴〉と改号します。
「人或いはこれを転向という。自分はずっと続いた一本道だと思う」〔小杉放菴 「半世紀以上」、昭和35年(1960)〕
世間から“転向”、あるいは“東洋回帰”と見られ、放菴の描く南画は、構図が勝ちすぎていて、文人の精神性がないという批判もありました。しかし、放菴は、自らの漢学の教養をおしつける南画ではなく、文人の楽しみを鑑賞者と共有することを第一とし、筆の修練を重ねて、洋画と日本画に新しい風を送り続けようとしたのです。
麻紙に拘る放菴という説明を見て、そういえば、竹内栖鳳も同じ岩野平三郎さんのところで「栖鳳紙」と言われる紙を作らせてたんじゃなかったっけ?と思い至り。。。確か横山大観も同じ紙職人さんを使っていた。。
放菴が出来上がってくる麻紙を使う度に色々コメントして100通程手紙を送り、それに応えたとの解説を読んで、いやいや、放菴ばかりではなく、後世に名前を残す大画家たちの細かいリクエストに応えていた岩野平三郎さん、凄い!っと、そっちに頭がいってしまいましたよ。ほんと。
この章の最初の絵は《ブルターニュ風景》等のシャヴァンヌの影響大と一見してわかるような絵が並んでますが、その中でも《黄初平》という絵が気に入っちゃいました。背景に金箔を使い、道化のように踊るような人物のイメージは西洋風でもあり、画題でもある黄初平の逸話(失踪していた羊飼いが仙人になり石を鞭打つと羊に変身する・・・ってなかなかの話ですが。)は中国のもの、と西洋、東洋入り乱れているものの、そこでうまーくバランスのとれた不思議な絵の魅力。
《帰院》《釣秋》といった絵も構図や金泥使いが素晴らしくて良いなー。
《新緑写意》の解説ではマティスのフォーブ時代の絵に似ているとか書いてあったけど、それには疑問符ありですが。。笑
春風有詩 昭和3年(1928) 小杉放菴記念日光美術館蔵
昭和に入って放菴の主要なテーマとなったのが、東洋の神話や古典の世界です。幼少の頃から父・蘇翁や師・文哉に従って漢詩の素読を習ったことの上に、漢学の碩学・公田連太郎(きみだれんたろう)との出会いが、放菴の思想をますます東洋に傾かせることになりました。放菴は、昭和2年(1927)から田端の自宅で友人を集めて、毎週、公田から漢学の講義を聴く「老荘会」を主催します。中国古典の思想は放菴の生き方にも多大な影響を与え、昭和9年(1934)から信州・妙高高原の別荘で、自然の風物に囲まれながら作画する生活を楽しむようになりました。放菴の描く荘子や李白は、別荘前に据えられた“高石”の上で妙高山を眺めて暮らす放菴の分身であり、明るく大地を踏みならす神々は放菴が遊んだ日光の大自然の象徴なのです。現実と離れて遊んでいたいと願った放菴の心が伝わってきます。
確か以前も見たような気がする《酔李白》とか《荘子》も衣の白とそれ以外の抑えた色との対比も含めて、なんというのか、泰然自若の高士の姿を良く表していていいなーとおもいましたよ。解説では放菴自身だというのだけど。
更には《さんたくろうす》、西洋の屋根と松林の中にいるサンタがミスマッチ感なく同居する姿は彼の絵の特徴かもしれませんね。
このコーナーの最後には前回は第一室の一段下がったところに掛かっていた(と記憶)笠木シヅ子がモデルという《天のうづめの命》もかかっています。この絵はポスターやチケットの絵柄にもなっていますよね。
前回の展覧会の時には目に留まっても気にならなかった解説はこの絵が日章丸二世の為に描かれ、船長室に掛かっていたと言う事。出光佐三を描いた『海賊と呼ばれた男』の影響で今回はすっかりあまたに入りました。
《洞裡長春》に出てくる梅の香にうっとりする唐子といいふくよかで、優しさを感じる人物の描き方は抜群ですねぇ。。
金太郎遊行 小杉放菴 昭和17年(1942) 泉屋博古館分館蔵
放菴の長い画業人生の中で、人と寄り添う牛はとりわけ好んで描かれたモチーフです。放菴が初めて描いた南画の画帖「南嶋帖(なんとうじょう)」にも、沖縄で牛の手綱を曳く牧童が繰り返し登場しますが、その構図は後年、禅の悟りの段階を説いた中国の伝統的な画題「十牛図(じゅうぎゅうず)」を思わせる画へと展開してゆきます。放菴の眼には、素朴な牛と牧童の日常風景が、「十牛図」や「出関老子(しゅっかんろうし)」といった中国古典文学のテーマと重なって映っていたようです。放菴が孫をモデルに描いた、悠々と熊に跨った金太郎の勇姿も、超然と牛の背に載った老子の分身といえましょう。ここでは、「十牛図」をテーマに、融通無碍に姿を変える物語世界をご紹介いたします。
放菴は金時を随分描いているけれど、本来雷神の子という位置づけで赤い身体を描くのが習わしだったところ、肌色に書いているのはお孫さんを模して書いているからと。放菴という人の人柄も伝わってくるようで、微笑ましい。
山水八種 小杉放菴 昭和8年(1933) 出光美術館蔵 〈場面替あり〉
放菴と出光美術館初代館長・出光佐三との出会いは、『景勝の九州』(昭和5年(1927)刊)という一冊の本がきっかけでした。『景勝の九州』は、放菴が九州電力の招待で九州をまわったときのスケッチ画冊「鎮西画冊(ちんぜいがさつ)」をまとめた旅行記ですが、佐三はその挿絵を見ているうちに、自分が惚れ込んだ博多の禅僧・仙厓(せんがい)と相通じるものがあると直感したのです。二人は画家の岸浪百草居(きしなみひゃくそうきょ)の紹介で会った途端に共鳴しました。この頃の放菴は、中国明末の文人・石濤(せきとう)の画冊「黄山八勝画冊」の色彩の美しさに感銘を受け、画冊の制作に精力を注いでいました。青年洋画家たちの間で、写実を突きつめて絵の具を塗り重ねた風景画が流行することを憂慮し、明るく美しい日本の風土を描きたいと願ったからでした。放菴の日本の風土を愛する純粋な心が、佐三には仙厓の無垢な境地に重なって見えたのかもしれません。
わかりやすく実感、放菴の画業
近年、日本近代画壇の中で重要な人物として、密かに脚光を浴びている小杉放菴。しかし放菴の名は、いまだ一般の美術ファンにまでは浸透していません。実は、当館の初代館長・出光佐三は、彼の有力な庇護者でした。プライベートな交流からはじまった放菴作品の収集は、約300件に及び、出光コレクションの一つの柱となりました。出光美術館だからこそできる、本格的な展示。この会場を一望すれば、放菴の画業が、さらりと実感できます。
金時遊行 小杉放菴 昭和時代 出光美術館蔵
妙高高原に別荘・安明荘(あんめいそう)を建てると、放菴は花鳥画に興味を持ち出します。鳥屋から鳥を買ったり、白鳥(はっかんちょう)を飼うための小屋を造ったり、川治温泉の鳥屋に一週間ほど籠もってスケッチをするなど、昭和10年(1935)頃から花鳥の写生の手控えが見られるようになります。戦争で田端の画室が焼かれて東京を離れると、安明荘で花と鳥に囲まれた世界に没入します。
「春光秋色自然の風物は人を慰める、又自然の風物を調理した芸術は人を慰める、この慰安芸術は、事実から遊離した境地のものでありたい、」 〔小杉放菴「兼山の縄」、昭和22年(1947)〕
愛国心の強かった放菴は、戦後の荒廃の中に於いて、絵の効用の一つは人々の心の休息や安らぎにあると考えていました。麻紙の繊維が醸し出す墨のぬくもりと絢爛な色彩のハーモニー。時間を忘れてたたずんでしまうような浄土世界は、放菴芸術の極みといえましょう。
梅花小禽 小杉放菴 昭和時代 出光美術館蔵 〈2月21日~3月15日展示〉
サイトにあった写真は前期のもので、これも素晴らしい構図だけど、後期の同じ《梅花小禽》とのタイトルのあった二曲一隻の屏風もこれまた素晴らしい構図、大胆な構図は天性の巧さをつくづく感じさせられます。
いやー、楽しかった。