2013年5月31日金曜日

夏目漱石の美術をとらえる頭の構造は実に面白い(湯川先生@ガリレオ風に。。)ーー夏目漱石の美術世界展@東京芸術大学美術館


仕事が遅い時間までの私には18時とか18時半とかからスタートするブロガー招待内覧会に出席するのはかな~り厳しい時間割なのですが、汐留での松下幸之助展に引き続き、翌日も当選できたので、

今日も解説を聞くのだ #漱石美術 posted at 18:27:42

とのつぶやきから、5月の最後の金曜日の夜が始まりました。今までもあったけれど、内覧会が連日になるとキビシイ。。でも、人気の内覧会だったようで、当選しただけでもありがたい事♪ だから、頑張って連日のベルサッサを敢行♪



そのおかげで、

今日のイベントは内容もだけど豪華図録を頂戴出来た上、八時半迄鑑賞させてくれるという大変寛容な企画!おかげで一度見た後に音声ガイドを借りて最後迄たどり着けた。ありがとうございました! #漱石美術 posted at 21:00:33 

尚、他の内覧会でもそうですが、特別に展覧会会場の写真を撮影することを許可されての掲載です。本展会場での撮影はできませんのでご注意くださいね。また、いつもの通り、会場での一点撮りは不許可ですのでそれで補えない個別作品については紙媒体(図録とかチラシとか)を使わせていただいています。

最初に、東京藝術大学美術館の古田准教授(この方は図録も藝術新潮の記事も東京新聞の抜刷も書かれていますね。)が「手短に」とおっしゃって、本当に短く、でもきっちりと解説をしてくださいました。

要は、漱石の小説を読むと彼の頭の中に絵画的イメージが広がっていたことがわかる事、その小説に出てくる絵を集め並べることで、彼がそれらの絵をどういう風に見ていたのか、その見方を探るという企画。

例えば、という事でご紹介戴いたのは、『坊ちゃん』中で釣りに来た赤シャツと野だ(いこ)の会話に出てくるターナー(の絵画に出てくる松にそっくりな)の松。傘のような形の頭にまっすぐな幹を持つ特徴的な松の絵を覚えていて、この場面を描いたのではないか、との説明。坊ちゃんはそんな絵の事なぞ知らないから黙って聞いていたという場面ですが、普通の読者もそんなイメージわかないから、いや、少なくともこの小説を中学生にあがるかあがらないかで読んだ当時の私には分かるわけもなく、なんだか知ったかぶり風の赤シャツと下卑た笑いをするのだいこの会話ぶりがよくわかる程度の記憶しかない場面でした。ちなみにこれに引き続いてマドンナの話が出てくるけれど、これも「ラファエル(原文ママ・・・ラファエロですね)」のマドンナと引いてあった、と今回改めて気づきました。随分絵画的なイメージが広がっていたんですねぇ。。なるほど古田先生おっしゃるポイントがよくわかります。本展では幹の部分が少し弓のようにしなっている《金枝》と坊ちゃんの描写にでてくるようなまっすぐな幹の《チャイルド・ハロルドの巡礼》の二点と、小説の該当箇所が絵画情報と同様に展示されています。
右が《チャイルド・ハロルドの巡礼》、左が《金枝》


次に紹介されたのが、《ガダラの豚の奇跡》。「夢十夜」の十夜目に出てくるストーリーとの関連づけです。
左が《ガダラの豚の奇跡》

『坊ちゃん』のように、作品中にはマタイ伝八章の一節を描いたとされるリヴァイエアーの作品名も、それを示唆する文言もなくただ豚の大群が襲ってくること、檳榔樹(びんろうじゅ)のステッキで豚の鼻頭(はなづら)を打ち据えると、ぐぅと言って豚が絶壁の下に落ちてくるという事しか書いてないので、普通だったら、そりゃ、聖書(マタイ伝)から直接のイメージを得たのではないか?と考えてしまいそうですけれど、漱石が「英国文学研究の為に、英国絵画を学ぶ事は不可分である」との言葉を残していなかったら、この絵が上野の地にやってくることはなかったかも・・と思うと感慨深いですねぇ。

さて、この他にも小説の中に出てくる絵がたくさん集められているのですが、広島⇒藝大(東京)⇒静岡と巡回するこの展覧会で、東京でしか見られない、と古田先生がおっしゃったのは渡辺崋山の《黄粱一炊図(こうりょういっすいず)》。『こころ』の最後の場面で登場するというのですが、自殺していく主人公のあの“くら~い”(そして友人の死後の場面が怖かった・・・)お話の最後に取り上げられていたかどうかなぞ、読んだ当時の私(高校生でした)に記憶なぞあるわけありません。青空文庫で確認してしまいましたが、文中には「渡辺崋山(わたなべかざん)は邯鄲(かんたん)という画(え)を描(か)くために、死期を一週間繰り延べたという話をつい先達(せんだっ)て聞きました。」というくだりがあり、主人公が決心してから自殺に至る経緯を書く時間になぞらえているという訳です。邯鄲は「邯鄲の枕」「黄粱一炊」「邯鄲の夢」と言われ 「枕中記」に出てくるお話―粟(黄粱)が炊けるまでの短い時間に見た夢のように、人生の栄枯盛衰等一瞬の夢に過ぎぬ・・・(ダカラ自殺シテイイッテモンデモナイケド)という暗喩を崋山の絵(画)で表現するとは、漱石の美術を含む広範な知の蓄積に打ちのめされてしまいます。ホント。
右が渡辺崋山《黄粱一炊図(こうりょういっすいず)》

広範な知識といえば、明治の頃には忘れ去られていた、というのが定説の伊藤若冲も作品に登場する・・ということで、これまた、びっくりさせられます。『草枕』-読んだはずだけど、記憶すらない、ましてや、そこにあげられていても、当時も全く理解できてなかっただろうと反省。


伊藤若冲《鶴図》ー『草枕』に登場


なんだか脱線気味になっちゃったけど、今回の見どころのひとつは、『虞美人草』の作品中に出てくる・・・でも実在しない抱一作《虞美人草図屏風》を想定して描いたという荒井経氏作の《虞美人草図屏風》と、「三四郎」に登場する原口画伯の描きたいといっていた(“あの女が団扇(うちわ)をかざして、木立(こだち)をうしろに、明るい方を向いているところを等身(ライフサイズ)に写してみようかしらと思っている。”)美禰子の絵を再現した佐藤央育氏の《原口画伯作《森の女》(推定試作)》。原口画伯のモデルは浅井忠ということだけど、この時代のイメージを考えて当時使っていたであろう画材を使って黒田清輝風に仕上げてあるとのこと。確かに。ちょっと薄い感じの着物の色や、塗り方は、切手にもなって有名な《湖畔》とイメージがだぶり、狙い通りといったところでしょうか。

佐藤央育氏による新作《森の女(推定試作)》

前後しますが、荒井氏作の抱一作《虞美人草図屏風》、最初の印象は銀箔の煌めきが憤死した藤尾の派手な印象に合うかとも思ったのですが、横に添えられた文章をみると・・・

荒井経氏の新作《虞美人草図屏風》
逆(さか)に立てたのは二枚折の銀屏(ぎんびょう)である。一面に冴(さ)え返る月の色の方(ほう)六尺のなかに、会釈(えしゃく)もなく緑青(ろくしょう)を使って、柔婉(なよやか)なる茎を乱るるばかりに描(か)いた。不規則にぎざぎざを畳む鋸葉(のこぎりは)を描いた。緑青の尽きる茎の頭には、薄い弁(はなびら)を掌(てのひら)ほどの大(おおき)さに描いた。茎を弾(はじ)けば、ひらひらと落つるばかりに軽く描いた。吉野紙を縮まして幾重の襞(ひだ)を、絞(しぼ)りに畳み込んだように描いた。色は赤に描いた。紫に描いた。すべてが銀(しろかね)の中から生(は)える。銀の中に咲く。落つるも銀の中と思わせるほどに描いた。――花は虞美人草(ぐびじんそう)である。落款(らっかん)は抱一(ほういつ)である。

なので、つぶやきは・・・

荒井先生の抱一見たての虞美人草屏風、銀箔がまぶしくて、漱石の文章に合わないのが残念と、おもったら、ご本人も十分承知の上、でもヒロインのイメージを損ねない事で落ち着いたと。百年後には箔も落ち着くことを計算しておられることを図録で知る。お見それしやした! #漱石美術 posted at 21:23:29 


ところが実際、図録の写真となると、古びた銀箔の屏風のようで、趣がありますので、100年待たずとも多少なりとも雰囲気はわかりました。
図録の《虞美人草図屏風》(部分)


615日にはこの文章の通り、逆さにして展示するそうです。この日って、何の日だろう?藤尾の命日?

それはともかく、古田先生の解説は大凡こんな感じ、猫(『吾輩は猫である』)に始まり猫に終わる前にちょうど300点?ほど見てきて疲れたころに現れる漱石の手によるヘタクソな絵が待っているけれど、その手前のセクションで展示されている第六回文展出品作品に対しボロクソに言いたい放題批評を書いた人の自筆絵画はこの程度のヘタクソさ、というオチが待っている・・という説明も冒頭にありました。

さて、漱石の南画は何点を与えられるでしょう?文展に出したら。。。


ま、確かに文展出品作品になると、好みの問題は別としても、私の目から見てもちょっとねーな作品があるわけで、入選しようとする目的のために描く絵を批判していたことにはおおいに賛同。今も同じ問題が・・・(以下自粛 笑)

ま、我々、感想文を書いているような感覚の人に絵を描けと言われても、描けないのと同様・・・と思えば、かなり良いレベルな日曜画家の味は出しているようにも思えますけどね。
字は明治時代の人らしく上手と、

解説でも言っていたし、最後の装丁の項で『こころ』の装丁が出てくるけれど、



橋口五葉の猫をはじめとした美しい装丁には及ばないかもしれないものの、なかなかのセンスであります。実際その時に採用された石鼓文(セッコモン)で書かれたオレンジの表紙は今も岩波書店さんの漱石全集で脈々と引き継がれているわけですし。
無論、展覧会の冒頭に展示されている橋口五葉による猫の装丁は日露戦争当時の空気をたたえた猫の正装等アールヌーボー風の扉絵デザインも、背表紙もすべて美しく、文字も色々工夫されています。


小口を切らずペーパーナイフで切りながら本を読んでいく仕掛けであるとか(そういえば「ビブリア古書堂の事件手帖」の太宰の項で、このアンカット本の話が出てきたなぁ。。)
展覧会の最後の方では五葉が工夫をしていたことを表す《続編》用のデザインも展示されています。実際には続編とはならず、上中下巻となったようですが。。。




文展作品に対する批判眼については上記でも触れましたが、その中で面白かったのは同じ
《瀟湘八景(しょうしょう はっけい)》の題材を取り上げた横山大観と寺崎広業について「実際に両方を見ていくと丸で比較にも何にもならない関係の画であった」とし、広業について「殊に洞庭の名月というのには細かい鱗のような波を根限り並べつくして仕舞った。此子供のような大人のする丹念さが君の絵に一種重厚の気を添えている」と続けてあるのですが、良かったと思ったのか、いや、ちょっとね、と思ったのか。。
此れに対し大観については「君の絵には気の利いた様な間の抜けた様な趣があって、大変巧みな手際を見せると同時に、変に無粋な無頓着な所も具えている」と評しています。
左が大観、右が広業ーいずれも《洞庭秋月》

図録でみると、あまり違いが鮮明でないようにも思うけれど、実物ではかなり印象が違い、現代人の私には、大観としらずとも、大観の筆さばきに心が惹かれます。明治人の漱石や、同時代の人にとっては、やっぱり大観は少し違った風だったのかなー、とも思いますがね。

そのほか青木繁や坂本繁二郎とか萬鉄五郎などの作品には小品であっても、やはり心動かされましたが、
萬鉄五郎《女の顔(ボアの女)》奥に見えるのは《田園風景》
漱石が褒め称えている平田松堂の《木々の秋》屏風は装飾が過ぎてうるさい感じ。
ま、全て漱石と同じ感性では見られないのは当然ですが。

さて、最後に・・・

もともと、夏目漱石と美術、というか絵画という意味では個人的には、 『薤露行(かいろこう)』関連の作品が多く取り上げられていたのがツボでした。だって遥かムカシとはいえ、卒業論文はトーマス・マロリーの『アーサーの死』が如何に後代の数多くの小説家・音楽家に影響を与えたか。。。ということがテーマだったもので。。

テニスンのシャーロットの女は言うに及ばず、漱石、マーク・トウェインなどなど(もっともっといます。)、意外な人物も含め、かなり多くの人たちがこの『アーサーの死』を種本にして、自らのアーサー王の世界感を表現しているわけで、西欧(英国)文化の基礎の基礎が何か、ということを漱石が的確に理解していたことの証明でもあります。よって、ついつい、帰りの電車で図録眺めながら、つぶやいてしまいました。



そして、私的には韮露行(カイの字ちょっと違うな)関連で、ビアズリーとか出品されていたのは期待していなかっただけにツボでした。実はアーサー王伝説が論文だったから。。で、図録の誤植ハケーン!古田センセの解説が、マロニーちゃんになってた(^^;;正しくはマロリーですが。 #漱石美術 posted at 21:05:13


いや、ホント、先生のせいではない、単なる誤植とは思うのだけど、マロニーって、中村玉緒の歌う姿を思い出し、噴出しそうになってしまった、というおまけつき。実に面白い。


章立ては以下の通りです。
I 漱石文学と西洋美術
II 漱石文学と古美術
III文学作品と美術
IV漱石と同時代美術
V親交の画家たち
VI漱石自筆の作品
VII装幀と挿図

いや、ホント、個人的なツボは別としても、かなーーーり楽しめました。(よって、長くなってしまった。)まだ会期もひと月ほどありますから是非。(イツモトチガッテ・・・汗)

夏目漱石の美術世界展
東京藝術大学美術館
2013年5月14日(火)~7月7日(日)

この後静岡県立美術館にも巡回します。7月13日(土)-8月25日(日)

2013年5月30日木曜日

伝統工芸は日本のものづくりの原点である----開館10周年記念特別展ー幸之助と伝統工芸@パナソニック汐留ニュージアムのブロガーイベントに行ってきました。

そう、ルオーの作品で有名なパナソニック汐留ニュージアムは、その名を「松下電器産業」といっていた2004年に開館したんですね。

今や社名には松下の名前は無くなってしまったけれど、企業の名前を冠した美術館らしく、その創業者である松下幸之助と彼が成功してからの文化的活動について10年目にして初めて企画されたこの展覧会、



始まった頃には持ち主からまだ出品を許されていなかった《萬暦赤絵方尊式花瓶》が初公開されるに至った中期の初日に、ブロガーイベントが開催され、行ってまいりました。


とはいえ、開始時間が私にとっては近くなければ、絶対ムリーな(早い)時間、18:00からだったなんで、相当走って、おつむガクガク(イツモ?)、お手手ぶるぶるな状態で駆け込んだので、結構見落としがあることに今気付いて、また行かんとあかんばい。。。とおもっちょリます。速報ベースで書きますのでその点ご容赦を。

また、このイベントでは会場内の雰囲気写真を特定の場所からのみ撮影を許可されていましたので、会場内の写真を撮影しています。普段は場内の撮影は禁止ですので、ご注意ください。
個別の写真は全てちらし等の紙媒体を撮影したものです。

解説してくださったのは社員で学芸員(イイナ、ソウイウステータス。。)の岩井さん。

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松下幸之助に限らず、もともとは風雅な家に育ってはいないけれど、自身の力で成功した企業家という人たちは、余裕が出てくる頃に、なにやら収集を始める傾向があるんでしょうかねぇ。江戸ー明治の財閥にのし上がった三井・住友・三菱(岩崎家)、は勿論、今美術館に名前が冠してあるところは大抵、まとまったお金を使ってそれなりのコレクションを築き上げていますよね。
で、大抵、そのきっかけは茶の湯だったりするわけで、松下幸之助も入り口のところは一緒。

近畿車輛(岩井さんは近鉄車両とおっしゃっていましたが、田中社長のお名前が出ていたので、正確には近畿車輛の前身の田中車輌ではないかと思われる。本質ではありませんが。)の田中社長にお茶会の正客に招かれ、何も知らずに引き受けてしまった、ところから、その一歩が踏み出されたそうな。
お茶をやっている人であれば、何の作法も知らずに正客を引き受けるなんていう大胆なことはできないけれど、やってみて恥を掻いた幸之助、そこで終るわけはありません。一年後には西宮に「光雲荘」をつくって茶席「光雲」の亭主を務めるに至ったとか。でも、幸之助とてたった一年ではそうそう巧くいくわけはないのを、そっと支えてくれた裏千家(十四世の)無限斎宗室(碩叟)さんの心配りに感激し茶の湯の道に邁進し、茶道具を集め始めた・・・・
と、ここまではのめりこみのスピードや深さは違うかもしれないにせよ、ありそうなお話ですよね。

でも、その後からがこの人の真骨頂。
華美なものは好まず、質素なものが好きというご本人は普通の収集家とは違う道を選んで行ったようです。
古いモノも集めていますが、戦後誰もが食べるのに一生懸命で、需要がなくなって、展示会すら開けない伝統工芸の業界(その範囲は茶にまつわる茶釜や陶芸にとどまらず、友禅染など)を支えるという活動に力を注ぐことになった、というわけです。結果として同時代の工芸家の作品が集まったという次第。

小学校途中で丁稚奉公に出され、関西電力(の前身)で勤める頃に電球のソケットを発明しそれが会社創業のきっかけとなったことは、あまりにも有名ですけれど、その発明し、モノを作るということが身に備わった彼だからこそ、美しい茶道具などに触れるにつけ、その伝統の技というものに魅了されていったに違いないのです。だから、支えたくなったんでしょうね。

だって、モノ作りには関係ない私たちにだって、日本の美しい伝統工芸品をこしらえるとなったら、相当の修練と技術が必要だということはわかっているのですから。

よって・・・ハッキリいって、今回展示されている品々も、収集家目線で見たら、ばらんばらん。。。というか、一貫性はあまり感じられません。特に支援していた工芸作家の作品群はね。

でもね、茶道具の方は、萩焼の人間国宝(無形重要文化財保持者)三輪休和(十代目休雪が隠居後の名前・・・コネタですが)の《萩茶碗》は胴の部分の白い釉薬-休雪白も美しいけど、見込みのひび割れもキレイ、だったり、愛用していたという大きな手ならすっぽり入りそうな小ぶりで、朱釉の美しい一入の《黒茶碗「閑談」》など、実用として使われたというだけあって、無駄のない良品が多いように思いました。
三輪休和《萩茶碗》 見込みの細かいひびが美しい

樂一入《黒茶碗 銘 閑談》 朱釉の景色が美しい
この大きさの感覚は実際に見ないとなかなか比較がしにくいけれど、息子の宋入の同じ《黒茶碗「毛衣」》と光沢や大きさが違うことを確認するのも面白いかな。

また、特にそれと知らずにひとつのガラスケースの中にはいきなり目を惹かれましたねぇ。というのは二枚の角皿がなんともいえず趣味がいいの・・・

・・・と、思ったら北大路魯山人だった。
《織部鉄絵鳥文四方皿》は、はっきりいって、焼き温度は失敗作かもしれないほど、織部らしい深い緑ではなくエメラルド色(解説によれば、釉の銅があまり表に出ずに、発色したそうです)だし、下の方も色がまざちゃっているんだけど、なんか、それがいとおしい感じ。
これが備前焼餅
隣に飾られていた《備前焼餅 平鉢》も牡丹餅と呼ばれる窯変による濃いオレンジ茶の丸紋が趣のある景色を作っていて、この大きさといい、ひと目で引き込まれましたし、隣にあった藤原啓の《備前徳利》も、現代の作家なのに、遜色なく並んでいる。
奥のガラスケースに二枚の四方皿と徳利が見えますよね。


第二章の工芸品はひとつひとつ見ていくと結構良いものが多いのですけど、私が目を奪われたのは黒田辰秋氏の《欅拭漆飾棚》。透明感のある釉薬でも塗ったのではないかと思うほどつやつや、でも、木目が美しく浮き上がるように漆を塗られた欅の美しい、そしてシンプルなデザインの飾り棚です。
岩井さんがちょっとしたエピソードを紹介してくれました。実は今回お孫さんから、人間国宝の作業過程を写したビデオがあると言われたそうで、見てみると、作業されていたのはまさにこの《欅拭漆飾棚》!正面部分の木目が決め手となってわかったそうですが、お互い、ビデオがあるお孫さんはビデオの中の作品がどこにあるか知らず、美術館側はそんなビデオがあることを知らず・・・今回の企画で初めて、この二つの関係がつまびらかになったということです。
それともうひとつ、真ん中の引き戸部分だけを開けると、奥のものがとれないということで、途中から観音開きになる、というカラクリもご紹介いただきました。
残念ながら、この飾りだなは写真を撮れるエリアからは遠いし、パンフレットにもなかったし。。。。
やっぱりこの魅力は会場で!(ト、コッソリ?イヤドウドウト宣伝モワスレマセン、私)

また奥まったエリアに展示されていた友禅の大胆な柄も結構気に入ったなー。息子さんの方ね、森口邦彦さん。

いや、こうやって解説し始めると結構キリがなくなるなぁ。

ま、後はもう一度行って確認することにするけど、会場外でやっていたビデオで森口邦彦さんがお話されていたように、幸之助は同じモノツクリ人としての仲間意識があってこその工芸家支援であり、自分のところ(パナソニック)もこれら工芸品のように精緻・正確でないといけないとの自戒を込めての収集だったのだということが改めてわかるような展示でした。





パナソニックさん頑張って!


開館10周年記念特別展ー幸之助と伝統工芸
パナソニック汐留ニュージアム
2013年4月13日(土)~8月25日(日)
(前期終了 中期 5月30日ー7月9日、後期7月11日ー8月25日)





2013年5月20日月曜日

藤田嗣治 本のしごと 日本での装幀を中心に----日比谷図書文化館特別展




日比谷図書館(現在の正式名は千代田区立日比谷図書文化館)でフジタの生誕100周年を記念した特別展をやっているので、昼休みに行ってきました。そろそろ日差しが強く暑くなってきてはいましたが、日比谷公園はところどころある、大きな木の下には十分な日陰ができていてとてもひんやりして良いですね。でもコンクリの上は暑いわ。。
入場料は300円、入口の券売機で購入する予定でしたが、この日は故障の為、受付の人にニコニコ現金払いして、一階奥にある展示室に案内され、パンフレットを渡されました。
300円なのに、カラー刷りのパンフレットがゴージャス。


構成は
フランス時代の装幀・挿絵の仕事
フランスでの装幀の仕事の中から、特に日本に関するものを中心に紹介
日本での装幀の仕事
「文学者たちとの交流」「詩人たちとの協働」「婦人雑誌の表紙絵」などを紹介
千代田区六番町、藤田のアトリエ
千代田区六番町にあった藤田のアトリエを取り上げるとともに、写真家土門拳が撮影した貴重な記録写真もあわせて紹介
ふたたびフランスへ
戦後の豪華装丁本の仕事を紹介
となっていて、藤田が取り組んだ様々な本のしごとが紹介されています。

ちらしの解説によれば
「ヨーロッパにおける挿画本の歴史は古く、本としての価値のみならず「芸術作品」としてひとつの分野を確立してきました。その時代ごと、一流の画家たちが本の内容に自分自身の解釈とイメージをふくらませた絵を描き、文字と一体となった美しい「挿画本」を生み出すことに夢中になりました。とりわけ19世紀末から20世紀にかけては、印象派をはじめ新しい美術の潮流が挿画本の世界にも多大な影響を与えました。画商ヴォラールは、ボナールやピカソ、シャガールなど、当時もっとも勢いのある画家たちに依頼して、詩集や小説に彼らのオリジナル版画を挿画として、限定版の挿画本を次々とこの世に送り出しました。」

・・・・・とあり、フジタがフランスに渡った1913年頃は挿画本が興隆していた時代で、フジタ自身も1917年には挿画本を手がけ、同じ時期(1920年代)多作のピカソにも10点ほどしかない挿画の作品が藤田には30点を超える作品があり、いかに挿画の世界の魅力に引き込まれていたかを示しているとの解説でした。挿画の方が金になる仕事だったから、、という理由じゃないのかしら??という根本的な疑問はあるものの、少なくとも精力的に働いた結果としての作品の数であることには違いありませんね。

さて、最初のフランス時代には記憶の中の日本というサブタイトルがつけられていて、渡仏してから頼まれた日本を紹介する本や、俳諧を紹介する本の表紙や扉の絵、挿絵が展示されていました。
最初のガラスケースの中の十二単を着たようなしもぶくれの平安美人の画風だけでフジタとわかる、と言われちゃうと、そうかなー?(チョット疑問)という感情もわかないでもなかったですが、あのシッカロールを使った乳白色のタッチは油絵のみにしか出しえない特徴である以上、そういったタッチでなくとも、当然と思って見始めることが肝心ですね。

俳諧の本の例として「古池や蛙飛び込む池の中」のフランス語訳の反対側のページに緑を使った二色刷りの美しい挿絵があったり、扉部分に自画像と横になって本を読む童子のような絵が組み合わせてあったりと、本によって色々なスタイルを見せてくれているのもなかなか面白い。
コクトーの詩への挿絵、日本昔話を挿絵と共にフランス語訳にした本の頁も展示されており、様々な仕事ぶりがわかります。

角を曲がったコーナーからは「文学者たちとの交流」「詩人たちとの協働」「婦人雑誌の表紙絵」になりますが、戦前「泰西名画」といわれていたような絵画のイメージの延長で、これが藤田と言われれば藤田、いや、野田英夫だと言われれば野田と信じてしまうようなパターン化したイメージの中に押し込められたような印象もなくはないけれど、「スタイル」(これが宇野千代の編纂していた雑誌だと知り、二重に面白かったですが。)の表紙の女性は、中原淳一のような可愛い印象ではなく、大人の西洋風女性であることには変わりなく、それはやはり藤田の描く女性の姿であるように感じることはできました。


一枚、特に解説もなく洋菓子店コロンバンの包み紙らしきものが貼ってありましたが、洋菓子コロンバンのロゴには記憶がある私ですが、この絵がフジタの手になるものとは初めて知った次第。調べてみると一種類だけではなく何種類かのパターンがあったみたいですね。

戦時中の本のしごとは、この頃描いていた戦争画と対をなすように戦車の表紙やら何やらで、一転して絵の題材も変わるわけですが、その意味では一貫しているなぁ。この人は外国暮らしをしていたからこそ、心底、祖国「ニッポン」の為になると信じて、そこに、こういう絵も描けるという矜持を持って戦争画や戦車の絵を描いていたんじゃないかなぁと、思ってしまいます。
土門拳の写真のコーナーに移る手前に、藤田の自著が並べられていましたが、最初の本は20版を重ねたくらいの人気本であったとか。戦時中(しかも昭和18年)にも関わらず、多色刷りの画集を出したりしていたようで、当時の本邦での人気ぶりが窺えるというものです。

今回掲げられていた土門拳の写真には、額縁を自分で作る姿や、額用なのかな?枠になるような木材を机の脇に積み上げ仕事をするフジタの姿がありましたが、解説に土門の言葉として、フジタ
は仕事は速いし、画法を盗まれないように秘密主義を守っていたこと、それにも関わらず土門の撮影を許したのは違うジャンルだったからではないかという言葉を読み、二年ほど前のポーラ美術館で、土門の写真からあの乳白色の肌色はシッカロールの粉を使っていた事の傍証が得られたとの展覧会の内容を思い出すことになりました。あの頃はX線やらの光学分析等されてしまうなんてご本人も思っていなかったから、土門の写真にそのヒミツが映りこんでいても、その発表をOKしたんでしょうかねぇ。今回の写真の中にも何かそんな仕事のヒミツがあるのかしら?とワクワクしながら眺めましたが、素人の私にはみつからなかった。・・(ザンネン)

最後のコーナーには豪華装丁本が展示されており、解説にはフランス国籍を取得し洗礼を受けた頃から戦争前にやむなく手放したフランス本の蔵書(殆どはフランスに寄贈され、夫人が手元に残していた500冊以上を近美に寄贈)を再び集中して集めた姿に今度はフランス人に同化するべく努力していったことが見受けられる、とありました。

戦前は時節柄にも関わらず豪華な多色刷り画集を出版できるほどの人気を博していたにも関わらず、手のひらを返されるように、戦犯の如く扱われたことがきっかけで、日本を捨てフランス国籍を取ったというのは有名な話ですが、今回の同化も、お国(ニッポン)の為に純粋に心血注いだ時と全く同じく純粋に新たな祖国の為に心血を注いだのだろうなぁ。と「本の仕事」を通じても感じてしまった私でした。

会期は残り一週間ですが、300円で、しかも遅い時間までこんなに楽しめる、とてもありがたい展覧会です。

藤田嗣治 本のしごと 日本での装幀を中心に
千代田区立日比谷図書文化館
201344日(木)~ 63日(月)
平日 10:00から20:00、土 10:00から19:00、日祝 10:00から17:00(入室は30分前まで)

2013年5月19日日曜日

【最後のオタノシミ加筆しました】脈々と私たちの中に息づいている・・・・のかな? もののあはれ・・・・サントリー美術館「もののあはれと日本の美」


お買いもののついでに出かけてしまったものだから、短眼鏡はないわ、クーポンもないわ、ついでに、現金の持ち合わせも、かろうじて1300円あった・・レベルでありまして、行った日は、作品的に端境期であった事を認識したのは展示室に入ってからでありました。
いつも思うのだけど、作品保護という観点では素晴らしい配慮、しかし、作品リスト片手にこの作品は何番だっけと実物と作品リストの照合をするには極めて暗い展示室内で、真ん中あたりのスポットライトの下まで行ったり来たりしつつ、リストの作品番号を対照しながら、二重丸マーク=国宝は、既に展示が終わっているという事を知ったという訳であります。

いや、そうであっても、なかなか、見ごたえのある展示でありましたよ。
http://www.suntory.co.jp/sma/exhibit/2013_2/display.html
展覧会の主題である「もののあはれ」については後述するとして、個人的には山口晃センセの『ヘンな日本美術史』で、アラベスク文様的な、と評されていた《枕草子絵巻》の白描画を松岡映丘の模写で見ることができたことは、良かったですよ、ホント。写真図版では若干、機械的な感じ、つまりアラベスク文様と言われる通りだな、との印象を受けていたのですが、実物大?の白描画を見ると、もっとストーリーに目が行く為か(中宮定子に挨拶に来た場面を清少納言が御簾の陰から窺っている)、いや、図版で見たのは、もう少し奥行のあるシーンだったからか?いずれにしても、印象は異なりました。とはいえ、その几帳面な文様調のリズム感と、黒によって目立つ地の色の白さは、他に展示されていた白描画を見ても、白描画なの?コレ?と思い至る事になるほど、コントラストが強いものとなりました。
印象に残ったと言えば、土佐派で復古大和絵の祖と言われている田中訥言という人が江戸時代に描いた《日月図屏風》(じつげつずびょうぶ)。六曲一双のこの屏風を描いた22歳で法橋位を取得したというこの人の名前を初めて知った体たらくはさておき、右隻の白と水色で表現された波頭の形のユニークさ(典型的な波頭の絵とは異なりますね。。)は印象的。波間から昇るのか、それとも消えて行くシーンなのかはわからないけれど、うっすら頭を出している太陽(旭日)は、それとわかるまでちょっと時間がかかったのですが、一応二重に金箔を施して、厚みを持たせていると解説に書いてありました。左隻の夜の川の流れも、流れというにはシャープな濃い青い色の切り込みのようであり、これまた普通の川のイメージとは異なり、何とも言えず素晴らしい。(名古屋市美術館所蔵の為、図録を買わないとポストカード等の画像情報が手に入らず。図録を買わなかったので、気になって色々検索をかけてみたらartscapeさんの2012年11月の記事中に写真と解説を発見♪)
因みにこの屏風は第五章の「もののあはれ」と月光の表現に登場しており、左隻には下弦の月。この向かいに主な月齢の説明のパネルがあって、どの展示作品にどの月齢の月の絵が描かれているかの解説がありました。私の印象では一般的に結構下弦の月が多いように思っていましたが、やはり満月や三日月には勝てないんですね、今回の展示では三番目か四番目の位置づけでした。

このあたりにやってくると、鳥の音が聞こえてくるなー、と思っていたのですけど、果たして、階段を降りて行ったあたりから花鳥風月の章が始まって、写真つきで、よく登場する鳥たちの解説がありました。ここで、新たな発見(イヤ、もの知らずの私的に・・・デスガ)が・・・今まで花鳥風月の絵で見かける尾の長い鳥は「三光鳥」っていうんですね。。ふむふむ・・・できれば、解説のところにボタンでもつけておいてくれて、ボタン押すとその鳴き声が聞こえると言う方がよかったけれど、啼き方についての文字情報はありました。
話は脱線してしまったけれど、丁度階段を降りたあたりの空間は階上まで吹き抜けで、遠くのほうから聞こえてくる時鳥や鶯の歌声が森の中から聞こえてくるような音響効果で、目の前に展示されている《春夏花鳥図屏風》(狩野永納)の景色に奥行を与えてくれていました。キュレーターの展示の工夫により、趣(もののあはれ?)を立体的に感じることができました。
サントリー美術館所蔵の代表的工芸品である《色絵桜楓文透鉢》(仁阿弥道八)に久しぶりにご対面しましたが、こんなに大振りだったのか、と改めてビックリしてみたり。。これまた何度かご対面している乾山の《銹絵染付金彩薄文蓋物》の蓋部分の薄の大胆なリズミカルなデザインはポロックもびっくり・・・というか、ポロックは見たことがあるのかなー、等と思いをはせると同時に、内側の菱形を使ったデザインとの対比には、何度見ても惚れ惚れするし。。。乾山全盛期の素晴らしい作品は「薄」という秋の「もののあはれ」の代表をヒップホップな世界に連れ出したような感じでもあり、ものののあはれの定義がよくわからなくなってしまうような気分にもなってきたわけです。
私には乾山の作品は「余白の美」というよりは画面全体を使ったアバンギャルドなデザインの印象が強いので、「ものののあはれ」という言葉からくるイメージとのズレを感じたわけです。が、同じ乾山の81歳の時の《短冊皿》は何枚かを並べると、上の方に蒼色、上の方に茶色っぽい色の雲がたなびくような、巻物の料紙の下絵のような柄が現れるように描いている・・ところは勿論洒脱なこの人の真骨頂ではあると思うけれど、それ以外は短歌の文字のみの為か、乾山の作品としては抑えめで(短歌の内容次第とは思うけれど)異なる趣を感じるものでした。

趣深いと言えば、作者の名前はわからない《武蔵野図屏風》。いや、武蔵野と言っただけで、平安の時代は勿論のこと、これが描かれたとされる江戸時代でも、言葉だけでも「荒涼感」が伝わってきたのではないかと思うわけですが、この六曲一双の屏風は、単純に薄等秋の草花を連続して、平面的にパターン化して並べて見せ、右隻の上る(或いは沈む)大きな太陽と左隻の遠くに見える富士山を背景に、どこまでも、どこまでも荒涼とした武蔵野の荒野が続くのだ、という事を見事に描いている佳作です。
薄がお椀をさかさにしたような図案にしてみせている仁清の作品もよかったなぁ。
北政所遺愛の秋草蒔絵歌書箪笥は、題材としては秋草なので、もののあはれ、と言えるのかもしれないけれど、ひとつひとつの引出しに別々の秋草が描かれる豪華な蒔絵が目を引きました。豪華であっても、もののあはれ、で括ることができるわけね。
もののあはれ、は本居宣長によって「発見」された感覚と、どこかに書いてあったけれど、「再確認」が正しいのではないかと思うほど、「趣」を感じるという感情は現代の日本人にすら流れている感情で、限定的に使うのであれば、やはり平安王朝文学の世界に見られる雅と裏腹の「荒涼感」との境目のように思わされた展示でありました。
今回の展示のウェブの解説にも「「もののあはれ」を知ることは、ひとり物思いに耽り、しみじみと心動かされるだけにとどまらない。和歌に詠まれ、絵画や工芸に表現され、鑑賞されることによって、初めて人々と共有され、それぞれの憂いが晴れるという側面が確かにある。また花見、月見、紅葉狩り、雪見など、大勢で連れ立って洒落込む季節ごとの行楽の動機づけには、「もののあはれ」の情趣への共感が等しく息づいていると言ってよい。私たちの暮らしには112ヶ月や、春夏秋冬、朝昼夕晩夜、月の満ち欠け、そして人の一生と、巡り来るさまざまなサイクルがある。これらはいにしえの人々と変わらぬ事情であるから、過去を生きた人々と心を重ねあわせることはそう難しいことではない。一方、江戸時代に始まる両国の花火など、「もののあはれ」を誘う要素は、伝統に閉じこもることなく常に更新されてきたと言えよう。鏑木清方の風俗画を眺めると、現代の暮らしの一齣一齣にも「もののあはれ」を感じる心が脈打っていることが実感されてくる。」(一齣一齣――ヒトコマヒトコマ。。の旧字体ですね。)
・・と書いてあり、「更新」されて、我々の奥底に眠っている感情なのだということなのでしょうね。

時間の関係から駆け足で巡ってしまったけれど、本当はもっとゆっくりしてもののあはれの感情に浸りたくなる展覧会です。

(ネタバレ・・・・にならない程度に。。。⇒期間終了したので、書き足します。)
展覧会の最後に、お楽しみがあります。

                    
↓    ↓     ↓
出口の手前に本日の月は・・・と、毎日の月の状態・・・満月とか十六夜とかの形を投影して、
ご来場ありがとうございました。との文字が添えられていました。
思わず微笑んでしまいました。

これを見て、企画者の優しさを感じた人は多かったのではないかしら。。

「もののあはれ」と日本の美
サントリー美術館
417日(水)~616日(日)